現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review13:村田沙耶香『ハコブネ』

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村田沙耶香の作品を初めから順番に読むというのをやっていると、彼女のアイデアがいかに展開していっているかが分かる。

『マウス』にせよ『ギンイロノウタ』にせよ、彼女は少し変わった性的指向を描いてきた。それは既存の女性性を拡張するような側面がある一方で、ヘテロ原理の焼き直しと捉えられなくもない箇所もあった。

その中でこの作品は、そのヘテロ原理さえめちゃめちゃに壊し、相対化してしまう「凶暴さ」を、よく手懐けている。

物語は、自分の好きな相手の性別が判然とせず、また自分の性別にも確証が持てない里帆と、テラ(地球)を愛する知佳子の2人の様子が交互に描かれる。

作中、椿という女性が里帆の相談相手となる。椿は、かなりラディカルな女性であるに違いない。ある点ではフェミニストだと言えるかもしれない。男性社会に組み込まれることを良しとせず、自らを「女性」と規定し、「女性」として振る舞うことに、ある種の自負心も抱いている。

かつてボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と語った。椿の思考もそれに根差していると言えるかもしれない。彼女は積極的に「女になる」ことを選んだ。

しかし、その『第二の性』が書かれた1949年にはそれは先進的な発言であったのかもしれないが、現在から照らせば、それさえ窮屈に感じられる。

里帆は椿のように「女になる」ことを選べない。椿はそれをある種の逃げ、あるいは幼児の「イヤイヤ期」のようなものだと考えているが、市川真人による解説にあるように、彼女のジェンダーはquestioningと呼ぶべきものである。従って、ボーヴォワールが語ったように「女になる」ことさえ、彼女は選べない(選ばない)。

椿というフェミニストが「女になる」ことを選び、それを回避しようとする里帆を糾弾する。この構造に人々は違和感を覚え、むしろ里帆に同情するに違いない。大丈夫、未決定で判然としない、そういうセクシャリティジェンダーもありなのだ、と。

既存の「男か、女か」という2択を、里帆は無化する。「男でも女でもある」あるいは「男でも女でもない」というセクシャリティを選び取ることになる里帆の姿は、人々に勇気をもたらすかもしれない。

しかし、それだけでは終わらせないのが村田沙耶香の進化であった。

里帆の物語の間に挟まる知佳子の物語は、読者が里帆の物語を相対化することを強いる。つまり、結局里帆もまた「人を愛する」という磁場から抜け出せていないのではないかということだ。

里帆のセクシャリティジェンダーを、椿が批判する。そこから読者は里帆のセクシャリティジェンダーに対する解釈を新たにすることができる。しかし、知佳子のセクシャリティに対する批判は見当たらない。まるで調理されていない材料がそのまま与えられているような感覚である。私たちは、この、あまりに大きすぎる「問題」を自らの手で捌くことが求められる。

村田沙耶香が描きたかったのは里帆ではないかと思う。そのとき、村田は知佳子という「スパイス」を散らすことで、里帆の造形を立体的にしている。その点に、この作品の画期がある。

review12:宮下奈都『羊と鋼の森』

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文体の特徴を記述するのに、もしかすると計量的な分析が有効なのかもしれないが、しかし小説を読んだときの「印象」というのは、畢竟、「印象批評」によってしか不可能なのではないかという気がする。

そういうわけで、宮下奈都の『羊と鋼の森』という小説の文体について言えば、それは静謐な雰囲気でありながら、かつどこか確実さを感じさせるようなところがある。

タイトルの「羊と鋼の森」というのは、羊のフェルトと鋼から発せられる音が、主人公の外村には「森」のように感じられるというのだが、それはどことなく宮下奈都の文体そのものと似ている。

宮下奈都の物語は、いつも最悪な事態になろうと、木漏れ日のような明かりが射し込んでいるような気がする。どんな絶望にも、希望の予感がある。

外村は学校のピアノの調律の場面に立ち会って感動し、調律師を目指すことになる。その点でこれは、ある種の「お仕事小説」と言えるのであるが、小説のほとんど、彼は壁にぶち当たっている。

と言われたって、素人には調律の微妙な違いなど分かりはしない。「もう少し明るい音に」みたいなリクエストが作中でも登場するが、果たしてそれが素人にも聞きわけられるものかは疑問だ。

それでもって、彼が壁にぶつかるというのは分からないように思われるのだが、しかし分かるところもある。門外漢には分からないような些細なあと一歩が越えられない。その小さな一歩につまずいている。そういう歯痒い向上心みたいなものがある。

外村はその中で和音と由仁という一卵性双生児らしいピアニストの姉妹と出会うことになる。この二人は好対照なピアノを弾くらしい。その中でも外村は、和音の弾く静かだが情熱的な音に惹かれる。

結局、和音は開花することになるので、外村はその卵を見出していたということになるのだが、それが外村に天賦の才があったということを意味するのではないと思う。難しいが、彼は門外漢なりに、その純朴な、穢れなき耳で可能性を聞き取ったのであろう。

宮下奈都が描写するそうした敏感な音の表現力にはほとほと驚かされる。もうため息が出る──というか、ため息をつくしかないような。

読者はその外村の聴覚を、当然外村の一人称視点から読み取るので、たしかにそのようにしか感覚できない。それが寂しくもある。もし別の登場人物からの目線であれば、その音がどう聞こえたのか気になる。

しかし、外村の感覚を通してしか音が描写されないからこそ、彼の可能性に寄り添うことができるというのも、また、事実である。

けれどもこれほど悔しいと思ったことはない。もし僕に、クラシック音楽の素養があったら、この小説はどんなに楽しかったろう。描写される音は僕の耳に空想のまま響く。さっぱり実感を伴わない。それでこの小説の魅力は半減してしまっているに違いない。僕はこの物語をまだ楽しむことができていない。ただ、森に差し込む木漏れ日を仰ぎ見ることしかできていない。

review11:津村記久子「浮遊霊ブラジル」

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表題作だけあって、文春文庫から出ている津村記久子『浮遊霊ブラジル』で、最も面白いと感じた作品は、「浮遊霊ブラジル」だった。

そもそも主人公が「浮遊霊」という設定自体がかなりぶっ飛んでいるし、それを描き切ってしまうのは、津村記久子本人の哲学や宗教観というよりも、軽妙なユーモアのセンスだろう。それが「些末な事実関係」みたいな正誤を乗り越えて、この作品を支えている。

そして何より主人公は、70代を過ぎた男性なのだ。ここまで作者本人と乖離した主人公も珍しかろう。そして浮遊霊となったあと憑依することになる人物も、男性から女性まで、そして国籍さえ乗り越えてしまうのである。

その「私」はアイルランドアラン諸島に行きたいと願う。それは一時遠のくように見えるのであるが、実際には最後にアラン諸島にたどり着く。そしてそのことが、「人間万事塞翁が馬」みたいな極めて典型的な帰結に終わった、「収まりの良さ」みたいなものに対して、物寂しさが無いではないが、しかし現代において、ここまで飛躍した形で『淮南子』を反復したその手つきに、まずは感嘆せざるをえない。そして、それが端的に「面白い」と感じさせる作品に仕上がっている!

この軽妙さは、人々ににこやかな顔をして歩み寄ってくるだろう。そして僕たちはその微笑みに「騙されて」、抱擁する。そのときに、この軽妙さの裏にある「普遍」の深さに驚くのである。

review10:津村記久子「個性」

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「個性」というのは何だろうか。

というのがこの作品のテーマだとしたら、いまひとつという感想を抱かないではない。

乱視のような状況の秋吉には、坂東が見えないという。それは「無個性」だから見えないのか。しかし一方で「私」は、坂東が「無個性」であることに「個性」を見出しているし、坂東が「個性」的になろうとしたところで、かえってそれが「非-個性」的に映る。

そこで「個性」という問題それ自体が、もはやどこに帰属するのかと思う。「個性」をめぐる問題は、果たして坂東に帰属するのか。しかし、坂東が坂東らしからぬ様子で「個性」的になろうとすると、秋吉はその「個性」から坂東を見ることができるようになるが、「私」にとってみればそれは「非-個性」なのである。

「「個性」がどこに帰属するのか」。端的に答えを出せば、それは当該人物の周囲の人物のなかにあるものでしかないのだ。そして秋吉がいみじくも示しているように、それは「感じ取られる」ものでしかない。そして「感じ取られる」それは、「今までもそうであった」という慣例と経験の積み重ねでしかない。

そのことを示したのがこの短編だと思うのだが、はっきり言えば「だから何なのだろうか」。その程度のことは、「個性とは何か」と考えたことのある人なら思いついたことのある考えだろうし、そこにもうひとひねり欲しかったというのが率直な感覚である。

review09:津村記久子「運命」

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津村記久子を初めて知ったのは、「行列」という短編だった。

 

modernculturecritiques.hatenablog.com

それで言うと、この「行列」という短編と、「運命」という短編はよく似ている。というのも、津村記久子は時として、日常のありふれた行動に抽象性を見出し、その抽象性のまま作品に仕上げてしまう人なのかもしれない。

「行列」という作品には、まだ話の筋らしき具体性があるのだが、「運命」という作品にはそれがない。抽象的に、「誰かに道を訊かれる」とか、そこから帰着される「群れで生きる」というようなことについて、淡々と、ありうべきケースが陳列される。

この陳列は、それぞれの小話があちこちのカテゴリから、あちこちの角度から、何か抽象的なものを照射しようとしているということが気づく。

もうひとつ、「行列」と違う点を明らかにするとすれば、「運命」にはその抽象性についてなんらの解ももたらされていないことに気がつく。この小説は、その抽象性を示しただけである。

読者には高度な読解行為が要求される。つまり、普通小説を読むと、2つの読解を同時にする。1つ目は、話の筋を追って、そこからなにがしかの感慨を得るというレベル。これが卑しい行為であるというわけではないのだが、後者と相対的に考えて「低次な読解」としよう。

2つ目は、その作品を「斬って」、そこから「哲学」と呼ぶべきような何かを吸収するというレベル。これを「高次な読解」としよう。

普通、作品を読むときは、この低次な読解と高次な読解を往還しながら、その人なりの「文学」としての像を形成するのだろう。尤も、後者の高次な読解と言っても、「教訓的か否か」という批評方法しか持たない人もいるのであるが(それこそが真に「低次」と呼ぶべきなのかもしれない)。

この作品は、低次な読解をすっ飛ばして、高次な読解を我々に迫る。そうした作品が世の中にはたまにある。その1つとして、この作品も陳列することにしよう。

review08:津村記久子「地獄」

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僕は幼い時から物語を消費して生きてきたので、それが普通だとばかり思いこんでいたのだが、そうではないらしいということに最近気づいた。

というのも、どっしり疲れて、メンタルも荒んでいる時期に、僕はめっきり物語の類がダメになってしまって、まず小説は読めない、映画は途中から集中力が切れ、アニメやドラマさえ、数分おきに停止して深呼吸してからもう一度再生するということを繰り返していて、物語を消費するには相応の体力が必要だということに気づいたのだった。

この小説の主人公の「私」は、物語を消費しすぎたという罪で、そういう人向けの地獄に入れられることになった。そう、主人公が死んでいるのである。

純文学らしからぬ素っ頓狂な設定に驚く間も与えられぬままに、それがあたかも当然のことかのように展開する物語が読者に迫りくる。

「物語を消費しすぎた」という罪。なるほど、人が命を懸けた出来事を、趣味で消費するということの罪悪というのがあるのだろう。物語を消費するというのは、ある程度人間に与えられた基本的なスペックだろう。しかしそれも、ある閾値を超えると、罪になるらしい。

この小説は、そもそも小説という物語であるのであって、読者たちにこう迫るのである。あなたたちが今しているこの小説を読むという行為さえ、罪なのではないかと。

review07:津村記久子「アイトール・ベラスコの新しい妻」

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この小説は、いくつかの掌編と呼ぶべきような物語が重なり合って、1つの物語を描いている。

「いじめ」が社会問題となり、許されざる大罪の1つに数え上げられて日が経つが、だからこそ、いじめられっ子は慈しむべき被害者として、いじめっ子は懲らしめるべき加害者として記述され、いじめられっ子は時に雄弁に過去を語り、いじめっ子は声を潜める。

だからといって加害者を庇おうと思っているのではない。少なくとも僕には、吉本隆明が『真贋』のなかで、「いじめられっ子もいじめっ子もどっちもどっち」と喝破したような豪胆さは無いし、勇気もない。

この物語の掌編の登場人物たちは、いずれも小学校時代の同級生という点で過去を共有しているぐらいしか共通点が無いように思われるが、掌編1つ1つを取り上げてみると、共有するモチーフがあることに気が付く。「いじめ」と「不倫」である。

それぞれについて詳述するのは、この作品の本筋から離れてしまうような気がする。ただ分かるのは、どちらも「気づいている人と気づいていない人」というふうに人々を分割しているということである。

そう言えばこの前に掲載されていた「うどん屋ジェンダー、またはコルネさん」もそのような非対称を描いていた。

それに似た感覚を覚えるのである。いじめに気づいていないこと、あるいは見て見ぬふりをすること。それは、不倫されることという風に応酬される。気づかれずいじめていた本人が、不倫されていることに気づかない。

その非対称を「暴力」と呼ぶのであれば、暴力は連鎖していく。国境を越えて。