浦沢直樹『20世紀少年』と映画『シン・ゴジラ』:戦後とは何か
浦沢直樹『20世紀少年』を読んだ。足掛け3か月ほどだったろうか。僕の中で漫画に費やす金額が大きくないので、古本で、毎月数冊ずつ集めたのである。
そして先ほど『21世紀少年』の上下巻を読んで、僕は初めてこの物語に触れることができた。お恥ずかしながら、僕はここに至るまで、『20世紀少年』の真髄にこれっぽっちも触れられていなかったのである。
それは、『20世紀少年』という作品が、日本の戦争経験というモチーフを、うまく改変して描いているということである。
これに気がついたのは、ともだちの一件がケンジの活躍によって一応解決を見た後、国連軍が日本にやってきたという場面だった。日本に治安を維持するために外国の軍隊が入るという構図に、一瞬GHQの進駐を重ねて見た。その考え方が間違いではないと分かったのは、国連軍の本部が置かれた建物が、GHQの総司令部が置かれた第一生命館だったということに気づいてからだった。
前に『20世紀少年』を読んだのは中学生のころだった。そのときもGHQの建物が第一生命館に入ったという事実は知っていたはずなのだが、そこが国連軍が入った建物と同じであるということに気付かなかったのだ。
これは単純に、「日本において外国の軍が入ってくる」という象徴的な場が第一生命館であるということ以上の意味を持つ。こう考えると、全てが詳らかに繋がるように思われてきたのである。
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ともだちは宗教からスタートして、世界を征服するに至った。これもまた、戦前日本の姿と重なるのである。戦前日本の姿は、戦争に勝つはずだというある種の宗教に支配された空気感ではなかったか。それをより鮮明に再現したのが、ともだち教の姿だったのではないか。
そこにある構造は、戦前日本の突入した姿と何ら変わらない。そして、ともだちがともだちたるきっかけ、すなわちケンジたちから友達だと認められなかった姿は、多くの植民地を持つヨーロッパに対して、植民地を持とうとした=満州を手に入れた日本が仲間入りを認められなかったことと重なる。
きっかけは、ケンジが宇宙特捜隊バッジを万引きしたことだった。それは文明国の名のもとに、未開の地を文明化するのだなどとパターナリスティックな仮面を借りたコロニアリズムと重なり合わないではない。そして、その歪みは日本において戦争という形で皺寄せを食ったのである。
ケンジはそうした欧米先進国のコロニアリズムを背負った人間でありながら、ともだちの世界征服に立ち向かう。しかしそれは武器によってではない、ロックによってである。そう考えたとき、ロックという音楽が戦後においてラブ・アンド・ピースを主張してきた姿とも重なるのである。
従ってこの作品は、あたかも近未来の出来事が描かれているようでありながら(それは設定上は間違いないのだが)、実際には太平洋戦争に突入した日本に、もしラブ・アンド・ピースを歌うロックが存在したのならというヒストリーイフのようにも受け取ることができるのである。
そこで重要なのは、この作品の持つ時間の感覚である。
この作品は、ケンジたちが少年だった70年代の出来事と、世紀末前後の出来事を描いている。僕たちはこう聞いたとき、あくまで前者の後に後者が置かれるのだという固定観念に縛られてしまう。それはあくまで時系列的には間違いではないのだが、しかし浦沢直樹は明らかにこの2つの時間をパラレルに描こうとしていることに気づくだろう。
それは、バーチャルアトラクションという未来的な装置を導入してまでも、現代の彼らが70年代を反芻するという設定にも見られる。それだけではない。『21世紀少年』に至って全体を支配するスピリチュアルな雰囲気は、この2つの時間を、時間軸上に配置するのではなく、あくまでパラレルなものとして理解することを迫っている。
一方の時間ではともだちが世界を征服しようとしている。世界を「友達」という関係のもとに結び直そうとしている姿は、大東亜共栄圏の美名を謳った大日本帝国の姿を透かしてみることができるだろう。そして、ケンジはロック・ン・ロールでそれに立ち向かう。
もう一方の時間では、ケンジの手によって「よげんの書」が著され、ともだちによって「しん・よげんの書」が著される。この2つは、時間軸上の未来に実現することになる。しかし、この観点から見れば、これは「実現している」のではない。単にパラレルに配置される別の世界線の出来事を記述しているだけだとも捉えられるのである。
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そして作品の最後を飾るのは「反陽子爆弾」をめぐるエピソードであった。
ともだちの陰謀が阻止された、その最後に至っても「反陽子爆弾」という「望まぬ遺産」が取り残されることになる。
そこで思い出されるのが映画『シン・ゴジラ』であった。
僕はすっかり『シン・ゴジラ』という映画が、震災をモチーフに、それを変成させることで物語を作り上げた作品だとばかり思っていた。いや、それもあながち間違いではない。しかしこれは何より戦争文学の系譜に位置づけられるべきものだったのではないか。
もちろん、震災と戦争は重なり合うところも大きい。震災後に作り上げられた秀れた映像作品を挙げるならば、その3作品はいずれも2016年に発表された映画である。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』である。ここに至って、戦争の日常を描いた『この世界の片隅に』が大きな反響を呼んだのは、戦争期の抑圧された日常と、徐々に迫りきて、いつのまにか日常と化している戦争という非日常の様子が、日常の中に貫入して、いつのまにか日常と化す非日常である震災を彷彿とさせ、国民が飲み込みやすかったからだろう。
『シン・ゴジラ』において専ら考察の対象となるのは、最後に取り残された停止したゴジラの体である。血液凝固剤によって一応停止したゴジラの遺体は、「望まぬ遺産」として、一応停止された核投下とともに残り続ける。
『LOCUST』という雑誌の1号において、北出栞氏は『シン・ゴジラ』のコピーである「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」の「ニッポン」というのが、即ち「会議」であると指摘した。*1
これは的を得ていると思うが、僕はそれを読んだときに、映画『日本のいちばん長い日』を思い出すべきだったのだ。日本の戦争を終わらせたのもまた、「会議」であったのだから。
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ここまで来ればお分かりいただけるだろう。『20世紀少年』と『シン・ゴジラ』には明らかに共通している点がある。それは戦争をモチーフにしたともだちの世界征服やゴジラの襲来が、「望まぬ遺産」を取り残す形で終焉を迎えたということである。
果たして、この2作品における「望まぬ遺産」とは、何の寓意であろうか。
それを詳らかにすることはしないが(各個人の解釈で構わない)、ここで大切なのは、『20世紀少年』の「望まぬ遺産」が秘密基地の下に隠されたものであったということだ。
秘密基地とは何か。それはパブリックには戦争に賛成していながら、プライベートでは戦争に反対しているという面従腹背の姿勢の、そのプライベートな空間のことではないか。
『20世紀少年』が最後に示した境地がプライベートな空間が(字義通り)抑圧されることによって、世界は〈終わり〉を迎えるのだという感覚だったことは興味深い。
宮台真司氏はかつてオウム真理教的な終末論と、女子高生たちの選び取った「終わりのない日常を生きる」という戦略を比較し、後者を称揚した。しかし震災を経た私たちは、「終わりのない日常」を生きながらも、どこか〈終わり〉を予感している。
その〈終わり〉の予感こそが片や反陽子爆弾、片や停止したゴジラと留保された核投下という形で、いつかプライベートな空間を爆発四散させる「望まぬ遺産」として日常に溶け込んでいる。本当に僕たちが目を向けるべきなのは、そのまったりとした〈終わり〉の予感なのではないだろうか。