現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

映画『パラサイト 半地下の家族』:ギウはなぜ笑ったのか、あるいは象徴的な何かについて

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本当に良い作品に触れた後、アルコールを飲んだ後のような多幸感に包まれる。この恍惚は、何も作品の筋立てがもたらす多幸感ではない。むしろ、そうした作品は、受容者に絶望的な何かを突きつけることも少なくない。

しかし、ただその法悦は、カラヴァッジョが《法悦のマグダラのマリア》に描いたマリアの表情のように、ただ天を仰ぎ、その多幸感の中に浸りたいと思わせてくれる。

そういう作品には、それほど出会えるものではない。少なくとも僕は、人生で3度ほどその経験をしたことがある。一度は、フランス映画の『危険なプロット』を見たとき。二度目は、アメリカとドイツの共作の『愛を読むひと』を見たとき。そして、三度目がこの映画だった。

〈象徴的〉な何か

物語の筋立ては、そう難しいものではない。

半地下に住む貧しい家族が、偶然の縁から金持ちの家に、身分を偽り、一家総出で厄介になる。寄生虫のごとく暮らす彼らのもたらす結末が、衝撃的であり絶望的なのである。

はじめに金持ちの家パク家にお世話になるのは、半地下の家族キム家の長男ギウであった。どうやら豊からしい友人ミニョクの紹介で、パク家の一人娘ダヘの英語の家庭教師となる。

とは言いつつ、実際ギウは家庭教師の地位に預かることのできるような地位ではない。ミニョクは大学生だが、ギウは入隊前に2度、除隊後に2度大学入試に失敗している。

そのギウが、身分を偽りミニョクの家庭教師となるわけだが、その初回の授業で、授業の様子を見学するミニョクの母ヨンギョの前で、「受験は勢いだ」などと説諭を垂れ、好感と信頼を得る。

ギウは自分を偽るために、まるで自分が極めて優秀であるかのように振る舞うわけだが、その中で前半に幾度となく登場するのが〈象徴的〉という語である。

なるほど、難しい絵画やけったいな石を見て(この石は実際にはそのとおり〈象徴的〉だったわけだが)*1、〈象徴的〉と評すると、それなりの知者であるような雰囲気が漂うものである。

しかし、この〈象徴的〉という語が、この映画の「見方」に一定の指針を示してくれている。この物語は、極めて〈象徴的〉に形作られている。

例えばそれは、社会的下層にいるキム家が半地下に住み、上流階級のパク家が坂の上の屋敷に住むことにも現れている。

そして、半地下に住む彼らは、ゴキブリに象徴される。

というのも、一家総出で身分を偽りパク家に寄生した後、パク家がキャンプに出かけたのに便乗して、キム家が一時的にパク邸を乗っ取るのであるが、その時に母チュンスクが自分たちをゴキブリに例える。

もしここでパク家が突然帰ってきたらどうなるか。きっと私たちはゴキブリのように隠れるだろう、と。

ある残酷なカーニバル

そうした発言は、実際に実現するというのが、物語の定石である。

大雨にやられたパク家は、突如屋敷に帰ってくることになる。

急いで存在の痕跡を隠し、さながらゴキブリのようにあちらこちらに隠れるキム家の四人。

これはある種の「カーニバル」と捉えられる。バフチンの言った、あの「カーニバル」である。

バフチンは「カーニバル」をどう表現したか。それはあらゆる価値観や身分秩序が逆転しあべこべになり、一時的に卑下されたきた乞食や娼婦が〈戴冠〉する。しかし、そうした逆転は永遠には続かない。永遠に続けば、それは単なる〈革命〉である。

〈革命〉の不可能性は本稿の意図したところではない。大切なのは、乞食や娼婦の〈戴冠〉は、必ずや〈奪冠〉の結末を迎えることである。

半地下に住むキム家は、一時的にパク邸を物理的に乗っ取り、その一夜、ある一瞬だけ〈戴冠〉したのかもしれないが、それはパク家の帰宅という〈奪冠〉に結果する。

しかし、この映画の面白さは、この逆転現象が、単に一度ひっくり返ったという程度のものではなく、さらに大きくひっくり返されているところにこそある。

というのも、このパク邸には隠された地下室があって、その地下室には、キム家がパク家に寄生する以前からの家政婦ムングァンの夫が住んでいたのだ。

半地下のキム家と坂の上のパク家という〈象徴的〉配置のカーニバルは、さらにその下=地下に住むムングァンと、その夫の存在によって二重性を帯びる。

ここで整理しよう。

一度目のカーニバルで、寄生するキム家はパク邸を物理的に乗っ取り〈戴冠〉する。

二度目のカーニバルは、その〈奪冠〉を待つ前に、地下に住むムングァンとその夫が、キム家の事情を知ったことにより、キム家から冠を奪ったことにより成し遂げられる。

そして、その冠は両者のどちらからも〈奪冠〉され、パク家の元へ戻る。

三度目のカーニバル

そして、三度目のカーニバルは、まさしく〈祭〉の形を撮って再演される。パク家の長男ダソンのサプライズバースデーパーティーである。

というのも、パク家の突然の帰宅の際、キム家は、ムングァンとその夫を地下室に閉じ込めようとするのだが、ムングァンがそこから出てこようとした際、キム家の母チュンスクがそのムングァンを地下室へ蹴落とす

蹴落とすというのが、いかに〈象徴的〉な行為であるかは自明だが、この際受けた傷をきっかけにムングァンは死んでしまう。

そのことを恨んだ夫は、チュンスクを殺そうとパーティーに現れる。

そして、このことは三度目のカーニバルであり、二度目に再演された場面とも言える。

実は以前、パク家の息子ダソンは、地下室に住むムングァンの夫が、夜中地下室から上がってくるのを目撃してしまい、卒倒した経験を持つ。

三度目のカーニバルは、地下に住むムングァンの夫が、半地下に住むキム・チュンスクを殺そうとする(実際に死んだのはキム家の長女ギジョンであるが)形で演じられ、二度その姿を見たダソンは、やはり卒倒する。

そして、そのムングァンの夫をチュンスクを返り討ちにするだけで幕切れせず、キム家の家長ギテクが、パク家の家長ドンイクを殺す。

なぜギテクがドンイクを殺したか。ドンイクは、キャンプから突如帰ってきて、キム家の面々がゴキブリのように机の下に隠れているとき、「ギテクには特有の臭いがある」と話す。

切干大根の臭いとも、地下鉄の乗客の臭いとも表現されるそれは、端的に言えば〈貧困の臭気〉である。そして、その絶望感を抱いたギテクは、ドンイクを殺した。

そして、やはりそれがカーニバルの形を取り続ける限りにおいて、〈奪冠〉は避けられない。

ドンイクを殺した後のギテクは、自分の行くべき場所が分かったという。パク邸の地下室である。

「自分の行くべき場所が分かった」とは、なんと絶望的な響きであることか。それはゴキブリが本能から自分の住処を探り当てる様子に似ている。

なぜウシクは笑ったか

そのパーティーでの顛末を終えた後、病院で目覚めたキム・ギウは、目覚めるやに笑いだす。なぜ笑いだすのか。

端的に言えば、それは自分たちが手にしたものの呆気なさや、そのときの無力感を受けて、もう笑うしかなかったのだろう。

そしてさらに、ここでマルクスの言葉を思い出そう。マルクスは言ったではないか。歴史は、一度目は偉大な悲劇として演じられ、二度目にはみじめな笑劇として再演されるのだと。

幾度となく繰り返されるカーニバル。しかしそれは企図されたカーニバルではない。本人たちは、〈立身出世〉と呼んで良さそうな〈革命〉を志していたはずである(そのことは、パク邸を乗っ取った際のキム家の様子に見える)。そして、その〈革命〉は、常に〈戴冠〉と〈奪冠〉を繰り返すカーニバルとしてしか演じられえなかった。

二度目にみじめな笑劇として再演された歴史は、三度・四度と繰り返されていくうちに、そのみじめさを深めていく。

ギウが笑うしかなかったみじめさは、繰り返される〈革命〉の挫折のみじめさである。

絶望的な、あまりに絶望的な

〈立身出世〉を、パク家に寄生することで成し遂げようとしたキム家の失敗=〈奪冠〉。

事態を終えたギウはある〈計画〉を決意する。それは、いつか自分がパク邸を買い、地下にゴキブリのように住む父を解放することだった。

そして、それはみじめな笑劇に差し込む一条の希望の光に思えるかもしれない。しかし、父ギテクは、映画の中盤で、示唆的な発言をしている。それは、「計画はいつもうまくいかない」という予言である。

王の冠を虎視眈々と狙う〈革命〉を企図する〈計画〉は、失敗が約束されている。

当然、ギウが〈立身出世〉して、父を救うなどという〈計画〉も、失敗せざるをえない。そのことは、その場面が描写されていなくとも、極めて明確である。

この映画が描いたのは、この決定的な「絶望」であった。

貧者が〈立身出世〉し、〈革命〉を起こし、上流階級の仲間入りをするなどという〈計画〉は、失敗する。

半地下に住んでいたキム・ギテクは最終的にどこに行き着いたか。それは、半地下よりさらにたちの悪い地下なのであり、それも自分の所有物ではなく、他人の所有物に寄生するしかない。

トマ・ピケティは、資本主義の中では、所得格差は拡大こそすれ縮小はしないと明らかにしたという。この映画は、その絶望を決定的に突きつける。

 

この絶望感は、なぜ僕にある種の多幸感を与えたか。

それは、その指摘が、痛快なまでに社会のあり方を捉えていたからにほかならない。

この映画は、〈革命〉がいつも〈戴冠〉と〈奪冠〉の反復(カーニバル)に終わり、それがみじめな笑劇として繰り返されていく絶望感を、まさに言い得た点で、傑作と言えるだろう。