現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

映画『心が叫びたがってるんだ。』:山の上の城の意味

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この作品について、まともに批評したブログというのに巡り合わなかった。

「考察」とは名ばかりで、その実際は中学生レベルの「感想」であるようなものや、「感想」と呼ぶのも憚られるようなレベルの低いものばかりだった。

 

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まずもって、この作品が称賛されるべきは、その冒頭においてである。

幼い時の思い出話。主人公・成瀬順の幼い時、彼女が〈ことば〉を失ったきっかけから話が始まるのだが、手早く彼女の憧れる「お城」が、我々の俗に呼ぶところのラブホテルであると示唆され、そこから出てくる父親と、その浮気相手の姿を見る。

ここまでの時間の短さ、しかしそこに無理が無いのである。

随所に配置された卵型の何かは、それ単独では不可解極まりないが、成瀬順が家に戻り母にその浮気現場の話を(そうと知らずに)してしまうときの玉子焼きで、どうやら〈たまご〉が重要なモチーフであると示した上で、両親の離婚まで、そうとは言わずに描ききる。

ここまで、その西洋の城風の建物がラブホテルであることも、父親が浮気していたことも、〈ことば〉にはされない。ただ淡々と連なるシーンが、そうした物語を紡いでいく様はクレショフ効果(あるシーンの断片が連なることによって意味を持つという効果)のある種の到達を見て取ることができる。

成瀬順に対して〈ことば〉に関する3つの〈呪い〉がかけられるのも、実際には冒頭わずか数分のことである。それは①母からの呪い、②父からの呪い、③玉子からの呪い。

この〈玉子〉というのが結構頓珍漢で、ただしそこまでに伏線があったので観客はなるほどと思うのだが、この〈玉子〉が「王子」のなり損ないであることも説明され、今後一連のこのモチーフへの意味付けまで行う手さばきは、それ自体感動させるものがある。

 

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話は変わるが、この映画の脚本は岡田麿理である。

私見では、岡田には大きな2つの問題系があると思う。

第一には〈ことば〉をめぐる問題である。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」では幼馴染の中で唯一既に亡くなったはずの本間芽衣子めんま)の姿が見える宿海仁太(じんたん)の〈ことば〉足らずな様子が目につく。観客は誰しも「自分ならもっとうまくやるだろう」と思うはずだ。あるいは、じんたん以外の目に見えないめんまの〈ことば〉が届かないという問題だと言ってもいいだろう。

最近では『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は、まさしく〈ことば〉をめぐる問題を扱っている(性的な〈ことば〉を、いかに言わずして言いえるかという意味で)。

おそらく岡田の中には、言葉が届くことは自明ではないという感覚がある。あるいは東浩紀デリダからその可能性を見出す〈誤配〉によって、誤った相手に、あるいは誤った内容が伝わることもあるだろう。岡田は、そうした可能性を常に踏まえている。

第二には〈盆地〉をめぐる問題である。

〈盆地〉と言えば素っ頓狂な感じがするかもしれないが、2019年に公開された、彼女が脚本を担当した映画『悪の華』と映画『空の青さを知る人よ』に至るまで、彼女は執拗なまでに〈盆地〉を描く。

そこにはおそらく「越えがたい障壁」としての山の姿を見るのである。そして、人々はその閉塞した状況から抜け出そうともがいている。そうした中で、岡田が映画『空の青さを知る人よ』のような一つの結論──すなわち、盆地の中にいても空の青さは分かるというような反転した肯定──が見出される。(その点では映画『悪の華』は〈盆地〉の問題にろくな答えを出していない駄作だったということになる)

〈盆地〉における閉塞状況は、東日本大震災以後の閉塞状況と重なる。政治的に見ればそれは「安倍長期政権」と言えるのかもしれないが、実際にはそこから隔絶した社会状況であろう。そしてそれは石川啄木が「時代閉塞の現状」で書いたところと、なんら本質的に変わるものではない。

 

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その点で、ラブホテルの問題に戻ろう。

ラブホテルは、①山の上にある、②西洋の城風の建築であり、多くのネット上の感想を見ていても、やたら②の方を強調する意見が目に付く。

それも確かにその通りで、物語後半において鍵となるこの場所は、〈玉子〉≒「王子」の響きと相まって、あるいは成瀬順が原作を手掛けた学級劇「青春の向う脛」の雰囲気と相まって、重要そうに思える。

しかし私見ではそうではない。むしろ重要なのは、①の「山の上にある」ということである。つまりそこは、〈盆地〉の中においてそこから脱出する可能性のある場所である。

そのラブホテル≒西洋の城と対比的に描かれるのが、成瀬順の住まう一軒家である。一軒家を「城」と比喩的に呼ぶことは異存あるまい。

この2つの城は対比される。この2つの間を遊動する父の姿は成瀬順とも重なる。この場合の父は、もはや単なる父なのではなく〈父〉と書き分けるべきな何かである。

その点、実はその〈父〉と関係づけて考えたいのが坂上拓実である。

精神分析ではフロイトの頃より、「転移」と呼ばれる現象が観測されてきた。いや、むしろ精神分析において「転移」は必須の要件である。それは、患者が医師に対して、(本来別のところに向けられるべき)愛着を示すというものである。

成瀬順もそうではないか。

成瀬順の失語症について、坂上拓実は、患者に対する医師のような振る舞いを見せる。そのとき成瀬順が最終的に坂上拓実に告白するのは、本来それが〈父〉に向けられるべき愛着だったことを示唆するし、その告白が例のラブホテルで行われたことも象徴的だろう。

つまり、一軒家という「城」は父と母の愛の巣であるかもしれないが、ラブホテルは父と母ではない女性x(これは変数)の空間である。成瀬順はその女性xに自らを、そして〈父〉の項に坂上拓実を代入したと言えるのである。

 

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一応ここまで岡田を褒めちぎってきたつもりであるので、一旦苦言を呈しておこう。

岡田には、ある固定観念がある。それは、人は異性を愛するようになるものであるという観念である。

ここに抜けているのは、単にLGBTではない。むしろLGBTについてであれば『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でも触れられている。もっともその場合は、「女性が男性を好きになるように、女性が女性を好きになることがあってもいいはずだ」というズラし方をしていて、それはそれで微妙なのだが。

その点で、この映画のメインキャスト4人が、「誰かを好きになる」というエンディングを迎えることに対して、「お決まり」と表現したような感想ブログはまさにその通りである。しかし岡田はその「お決まり」=人は異性を愛するようになるものであるという固定観念が、まさしく所与のものであるという立場に立っている。

とは言うものの、これが岡田だけの問題だとは思わない。

もちろん日本には、何ら恋愛に発展しない「日常系」なる珍奇なジャンルが存在しているわけだが、そうでなければ人は異性を愛するようになるものであるという想像力のもとに作品が作られてきた。

 

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その点で、この物語が成功したのは、その恋愛を成就させないという点においてである。

4人は誰かを愛する。ある者たちは成就するであろうことを示唆され、ある者たちはそうではない。しかし、そのいずれも描かれないのである。その「描かれない」ということが至極重要で、その点において、この映画は単なる恋愛映画と隔絶した位置に置かれるべきものである。

そこから分かるように、この映画を単なる青春映画と見るのは早計だろう。

いや、もちろん青春映画なのである。というのも、この物語には明らかに〈子供〉と〈大人〉の(対立といかないまでも)不調和が描かれる。それは〈子供〉と〈親〉と言い換えても差し支えない。その中で導き出されるのが〈ことば〉の問題であることは非常に示唆的であろう。

つまりそれは2つのことを示唆する。

第一に、〈子供〉と〈親〉に〈ことば〉を超越した「紐帯」(親子の絆)のようなものは存在しないこと。

第二に、〈親〉でさえ〈子供〉を傷つけうるということである。

一方で、ここまで描いても、この映画は〈ことば〉にネガティブなイメージを植え付けようとしない。

最も多く見られる「言葉の大切さが身に染みた」といった単調な感想がそれを示しているように、〈ことば〉には「意を伝える」という最も根本的かつ重要な、ポジティブなイメージも付与されているためである。

そしてそのことは学級劇「青春の向う脛」のラストシーンが、2つの曲を同時に演奏したものであることからも分かる。片方は明るい曲、もう片方は悲しい曲である。この2つの対立は、そのまま〈ことば〉のポジティブなイメージとネガティブなイメージに対応する。

 

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以上、この映画について見てきたが、この映画は観客にある程度の「読解力」を課す。

(ミステリ的ではない意味での)伏線を丁寧に拾い、比喩を読みとく能力を求める。

個人的には、これが作品の水準として最低のものとなってほしい。この映画が傑作と見なされなくなるいつかを夢見て稿を終える。