現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

映画『ある少年の告白』:Do you want to change?

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この映画は傑作とは呼べないかもしれない。傑作を生みだしうる題材なのに。しかし得てして「事実は小説よりも奇」なるものであると同時に、事実は小説よりも「面白くない」ものである。

しかし、この作品が僕たちに突きつけるテーマは、それ自体熟考に値する。アメリカで、この映画製作時点に70万人が収容されているというLGBTQの矯正施設をテーマにしたこの作品は、そこで行われていることを〈告発〉する内容である。

 

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この映画の最も根本的な対立とは、キリスト教的な異性愛絶対主義と、それに対するところのLGBTQの対立であると言えるが、それは端的に言えば、〈男同士の絆〉とLGBTQの対立であると言って良い。

〈男同士の絆〉はセジウィックの提起したホモソーシャルの概念であるが、その特質は①ホモフォビアと②ミソジニーにある。だからこそセジウィックは、同性愛者と女性の連帯を模索するわけだが、それと似たことがこの作品でも行われていることに気が付くはずだ。

ある時代まで(あるいは現代まで)、社会とは男性的でしかありえなかった。男性とは主体なのであり、女性とは客体でしかありえなかった。もちろんこうしたことは、女性の秘める可能性を無責任に棄却するもので認められない。しかし現に、社会は、そのように構造されてきた。こうした状況が一昨年話題になった大学入試における女性差別にも見られると言えるだろう。

すでに社会は充分に男性的であり、それが故に社会とは巨大な〈男同士の絆〉と言うこともできる。

だからこそ、社会は①ホモフォビアと②ミソジニーの傾向を示す。そのホモフォビアに、論理的基礎づけを行っているのが、アメリカにおいてはキリスト教なのである。

 

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翻って日本について考えてみよう。

日本においてホモフォビアを基礎づけるものは何か。それはキリスト教よりもずっとたちが悪いことに、①感覚の問題と、②生物学の援用であった。

例えば、「同性愛は気持ち悪い」とか「生理的に受け付けられない」といったロジック(実際にはロジックにすらなっていないわけだが)や、「生物として男女が交際し、子供を作るのが普通のことだ」といったロジックがそれにあたる。

特に後者の方は酷く、そして反論も難しい。当然生物としては子孫繁栄は喜ぶべきことであり、場合によって生命の原理となりうるのである。それを乗り越えるためには、いずれにせよアクロバティックなロジックが必要とされるだろう。

かつて話題になった小川榮太郎の文章に、そうした感覚の極致が見える。

小川氏は、LGBTについて「性的指向」ではなく「性的嗜好」と表現。「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」との姿勢を示した。

LGBTは、性的嗜好ではない。「新潮45」小川榮太郎氏の主張はここが間違っている。識者が指摘 | ハフポスト

この引用した引用元のサイトでは、彼があえて「性的指向」を「嗜好」と書いたことへ批判を向けているが、こうした発想は「異性愛が普通」であり、誰しもにその基盤のようなものがあるはずなのに「異性愛という嗜好」に走っているということによる。

LGBTQをめぐる議論は、「全員の基盤には異性愛があるはずだ」と考える(いわゆる)保守系と、「LGBTQと異性愛は並列される性的指向だ」と考える(いわゆる)革新系に分かれ、そうした位相のズレがいまだに解決されていない。

この位相のズレは、この作品において見られた。矯正施設では「異性愛」というのが神の望んだ姿であり、それが自然であるというように描かれ、LGBTQは何かの気の迷いであるかのように描かれていた。

 

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この映画でも、途中神学論争に似た小さな会話が挟まれた。「神は存在するか」「世界は始まるか」といった小さな質問の応酬であった。どうしてそういう問題になるかと言えば、キリスト教圏においてLGBTQを擁護するためには、端的に神を否定すれば良い(そうしない人も多くいるだろうが)。

しかし、この映画よりもずっと絶望的なのが日本の状況である。日本におけるLGBTQは、「なんか嫌」という感覚的な問題に還元されるか、生物学的な「異性愛が生物として普通」という問題に換骨奪胎されるかして、否定されてきたし、否定されている。

このいずれかを乗り越えるためには、第一に、そうした感覚を否定し、第二に、生物学を乗り越える人間の原理が必要とされるのである。このどちらも簡単な話ではない。

この映画が付きつけるのは、ある命題に対して何らかの態度を迫る気迫であった。僕たちはそれに対し、非常に論理的な、かつメタ的な立場を選ぶことを要求されている。