現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

映画『ディーン、君がいた瞬間』:気怠さと短命

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人には、短命と長命とがある。

極めて普通のこのことが、私たちにとって究極の不平等と、究極の平等を突きつけている。究極の不平等とは、まさしく寿命の長短であり、寿命が短ければ当然、幸福も少ないだろうし、長ければ幸福も多いだろうという不平等を指す。しかし同時にそこには究極の平等もあって、それは、全ての人が、必ず「死」という絶対的なバッドエンドを迎えるということを意味する。

ここで生命原理について話を深めることはしないが、この究極の不平等と、究極の平等とを、私たちは夭折した偉大な人々に対して感慨として抱く。それは、「この人は短命で可哀そう」という意識と、「それでも人はみな死ぬのだな」という意識の形を取る。

 

     ◆

 

歴史上の偉大なロックンローラーは28で死ぬだとか、得てして偉人は夭折する。長命であると偉人であるにたる理由を汚すにたるだけの所業をなすだけという説もあるのだが、それでも私たちはそうした感慨を抱く。

若く死んだ人を思い出してみると、どうやら彼は自らの短い命を知っていて、それでその限られた命を燃えつくすかのように、猪突猛進人生を邁進するかのように見えるのである。本作のジェームズ・ディーンがそれに当たる。

ジェームズ・ディーンを演じるデイン・デハーンよりも、一介の写真家デニス・ストックを演じるロバート・パティンソンの方が美男子であるというような、単なる形骸上の問題を離れて言えば、デイン・デハーンジェームズ・ディーンをよく演じている。なんとなく気怠げなその雰囲気を。

若い偉人たちは、しばしばそうした気怠さを示すことがある。太宰治が装ったのも、そうした気怠さであった。現代で言えば、長命ではあるが中島義道が「人生を〈半分〉降りる」とするのがそれに近い。

なんとなく、人生におけるあらゆるものが、ある種の時間つぶしに過ぎず、その気怠さという本質にたどり着いてしまったような雰囲気である。

太宰治は、そうした気怠さを装った。それでいて彼は「走れ、メロス」などという駄作を奏上し、「教訓的」との理由で教科書に掲載され続けているのであり、やはり彼の「無頼」=気怠さは、装ったものに過ぎないのであるが。

ジェームズ・ディーンが、実際に気怠げであったのかは分からないが、少なくとも映画の中ではそんな感じである。何もかもが面倒くさい、何にも囚われたくない。

ドゥルーズが分析したスキゾイド型の症例に、あるいはアメリカ繋がりでたどれば、トルーマン・カポーティティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを思い出せばいいだろう。

 

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僕は、この気怠さに羨望の眼差しを向けるものである。なんとなく、人生の気怠さに共感するものである。

何も「僕は早死にするだろう」などという、過てば恥ずかしいばかりの予言をするのでも、当たれば悲壮感を漂わせるだけの予言をするのでもなく、ただこの気怠さをうらやましいと思う。

ニーチェ以来の、無意味な人生という直感を覆すだけの何かを、未だ発見できない僕は、人生に対して、許されるならば気怠げな態度を取りたい。しかし実際にはそれは許されぬ。凡才に許されるのは生きる意味があるかのように装いながら、生真面目に生きるということだけなのであるから。

その悲しみと共に、稿を終えたい。