現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review03:小川洋子「ドミトリイ」

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僕はこの小説を文春文庫の『妊娠カレンダー』に所収されている形で読んだ。表題作の「妊娠カレンダー」を読んだのは昨日のことである。そちらのレビューもある。

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失敗だったと思ったのは、全部を通読してから前のレビューを書けばよかったということである。と言いつつ、まだ「夕暮れの給食室と雨のプール」を残したまま、この記事を書いている。

「妊娠カレンダー」と「ドミトリイ」が決定的に違うのは、着目される感覚ではないかと思う。もちろん小説というのは、主に視覚的な表現に頼る。しかし、それに専心するのは素人の小説であって、優れた小説には、別の感覚が巧みに織り交ぜられるものである。そう考えたとき、「妊娠カレンダー」は全体的に嗅覚の占める割合が大きかったのに対して、こちらは冒頭、聴覚的な表現から始まる。

一方、共通している点もある。私見では2つ。

1つ目は、どちらも身体的に問題を抱えている人物を描いていることである。「妊娠カレンダー」においては、「わたし」の姉が妊婦であり、「ドミトリイ」においては「わたし」と関わりを持とうとする学生寮(ドミトリイ)の経営者であり管理人であり、かつ「先生」と呼ばれるその人物には、右足しかない。

僕は小川洋子の作品に通じているわけではない。というか、この2作を除いて読んだことがあるのは『博士の愛した数式』だけであるが、ここにも共通点が見出せよう。

2つ目は、両方ともに、時間を経ても変わらずにそこにある建築物を描いているということである。「妊娠カレンダー」においてそれはM病院であり、「ドミトリイ」においてはまさしくその学生寮のことである。

そして、これはすっかり昨日のレビューの段階で見落としていたのだが──と言うか、勘づいてはいたが書くのが躊躇われる程度の思い付きだったのだが──その建物が、別の何かと重ね合わせられる。

「妊娠カレンダー」においては、「わたし」と姉、そして姉の夫という3人の、いびつな「家庭」がM病院と重ね合わせられる。そこに貫入しようとする姉の子という「異物」が、その3人に「つわり」を引き起こしていることは、昨日論じた次第である。

一方、「ドミトリイ」において、「わたし」は自身をその学生寮に重ね合わせようとしている。冒頭に記述される何とも表現できない「曖昧さ」を孕んだ音というのが、まさにそのことを示している。スウェーデンにいる「わたし」の夫から準備の催促を受けながらも、特に何も準備せず、必要か、何に使うのかさえも判然としないパッチワークに精力を注ぐしかない、言わば「現状を継続したい」という「わたし」の願望が、学生寮には重ね合わせられている。

ここで、宮台真司が提起した、戦後思想史上最も重要となるであろうキータームの1つである「終わりのない日常」のような概念を導入して分析することも、不可能ではあるまい。「わたし」はその「終わりのない日常」という安寧の中に身を委ねようとしており、その願望が学生時代の学生寮を思い起こさせ、不思議な音さえ生み出すのである。

しかし、先生の様子は、その「終わりのない日常」それ自体を否定しようとするものである。先生は、学生寮の様子に「変性」を確かに感じ取る。

そのとき、学生寮という1つの建築物は、この先生の身体とも重ね合わせられる。学生寮が、ある事件以来変性を余儀なくされているように、先生の身体も、右足しかないという不具によって変性を余儀なくされている。先生はその先に自分の死の予感を感じ取っているが、先生の死が意味するところは、学生寮の「終わり」である。

 

     ◆

 

先生が鋭敏な感覚を向ける対象は、学生寮の変性だけではない。先生は学生の身体について──先生の言い方を借りれば「器官としての身体」について極めて優れた感覚を持つ。

この点で思い出されるのが、清岡卓行の「手の変幻」あるいは「ミロのヴィーナス」と題される評論である。これは教科書にも広く掲載されているので、今や最も多くの日本人が読む評論の1つとなっているのであるが、ここでは両腕を欠損したからこそ想像力を喚起するミロのヴィーナスの魅力が語られる。

事実、「ドミトリイ」においても、「わたし」はもし先生に両腕があったらなどと空想してみるのだが、この作品の画期は、その視点を展開して見せたことである。すなわち、欠損した身体が健常者に想像力を喚起するのではなく、欠損した身体を持つ人が健常者の身体について鋭敏な感覚を示すという逆転である。

「無い」という形容詞は非常に不思議な語である。そもそも「ある」というのが動詞なのに「無い」というのが形容詞であるという非対称が示唆的であるが、「無い」ということは、常に「ある」ということを前提として、それを否定する形でしか存立しえない概念なのである。

そのとき、先生は「無い」という現状から、「ある」という他者に鋭敏な感覚を向ける。だからこそ、その他者が「無い」ようになってしまうことには、甚だ哀しみを覚えるのだろう。

というのも、この作品はある地点から、急にミステリー小説の様相を呈してくる。行方不明になったというかつての寮生についてである。*1

この数学科の学生が「無い」こと、その「不在」こそが、この学生寮に並々ならぬ変性をもたらしている。そして「わたし」がこの事件に強い関心を抱くのも、この「不在」が解決されさえすれば、学生寮の変性が止められると考えているからではないか。

だからこそ、最後に「わたし」が滴り落ちる蜂蜜を見て、血液だと早合点する。「わたし」は、屋根裏にこの学生の死体があって、その死体から血液が滴り落ちているのだとすれば、この学生の「不在」が解決されるものと信じているのである。*2

しかし結局、それはあくまで蜂蜜なのであり、血液ではなかった。その点で、「わたし」にはやはり変性が付きつけられる。彼女が安住しようとした「終わりのない日常」などというものは「無い」のであり、その象徴であった学生寮は先生の身体とともに終焉に向かっていることを示している。

*1:この寮生が数学科の学生であったというのは、『博士の愛した数式』にも繋がる小川洋子の数学への関心が分かるところである。

*2:天井から滴り落ちる血液というのは、学生寮が死にかけていることを示唆している。