現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

タイドラマ徒然02:「My Dear Loser :Edge of 17」を徹底的に考察する

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ちょっと色々あって、タイBLに片足つっこんだわけですが、日本語字幕が付けられていて、かつYouTubeにアップされているBLドラマは粗方見尽くし(2倍速で見るので、2日あれば十分1シリーズ見終わってしまうのです)、なんなら英語字幕しか無く、名作とされているものも見てしまいました。

さて、その中で噂を聞きつけたのが、Pluemという俳優と、Chimonという俳優のカップリング、通称「PlueMon」です。このカップル、GMM TVがBLに乗り出した初期のカップルなのですが、そのカップルが初登場したのが、「My Dear Loser :Edge of 17」というドラマでした。それもメインではなく、サブカプだったのです。

この「My Dear Loser」ですが、GMMは同じ年に、このタイトルを冠すドラマを3本制作しており、その3本ともが連関しているという仕掛けになっています。

僕は英語字幕しかついていないこの動画に日本語字幕をつけるついでに、通して見てみました。そうすると分かったんですが、これが結構よくできているんです。

ということで、その魅力を徹底的に解説したいと思います。

ちなみに、僕がつけた日本語字幕は2020年5月末時点で承認されていませんので(つけてまで少ししか経っていませんし、かなり前の動画ですので)、今見ようと思っても、英語字幕で見るか、タイ語で頑張るかしかありません。

タイトルをどう訳すか

僕が字幕をつけてみて思ったのは、結構大変だなということでした。僕はタイ語が分からないので、英語を経由した重訳になるのですが、その結果、英語と日本語の違い、例えば人称の豊富さや語順(SVOかSOV)が大変でした。詳しい苦労は、もし字幕が承認されたらご説明する機会もあろうと思います。

さて、ではまずこの「My Dear Loser :Edge of 17」をどう訳すか、考えてみましょう。もちろんタイトルなのだから、そのままで良いのですが、作品全体の方向性を考える上でもタイトルをどう解釈するかは重要な問題のはずです。

僕は実はこのタイトルの和訳を、字幕をつけはじめた頃から決めていました。

「私の愛する負け犬へ :17歳の曲がり角」という具合です。

僕は字幕の中で度々出てくる「loser」という単語を、一貫して「負け犬」と訳しました。その結果あちこち支障も無かったわけではないのですが、一応の信念と言いましょうか。

重要なのは、この「loser負け犬」が愛されているということなのです。そのことが作品全体に与える示唆は大きい。

そして「17歳の曲がり角」というところ。作中で明かされますが、この作品の主人公Oh(Nanon)は、17歳になるまで、かつては仲の良かった友達Copper(Plustor)にいじめられている。それが、この17歳をきっかけに、大きく変わることになるのです。

Ohはなぜ「負け犬」なのか

一応日本社会でも、いじめというのが社会問題になっていて、「いじめられている方には全く落ち度はない」というのが常識になっていると思います。もしそれに反することを言えば「お前はいじめっ子の味方をするのか」と非難されてしまうでしょう。

しかし、少なくともこの作品のOhに関しては、彼が「負け犬」である理由があると思うのです。

というのも、前半に相次いで繰り返されているモチーフがあります。それはOhが嘘をつくというモチーフです。

特に母親に対して、例えば学校でいじめられていないと嘘をついたりする。こういう風に、Ohの人物造形にとって、「彼がついつい嘘をついてしまう人だ」ということが重要な要素になります。それは「卑屈である」という風にも置き換えられる。

このことにはOhも気づいていて、「全部僕が卑屈だったのが原因なんだ」と言ったりするわけですが、事実物語の最後の一波乱も、このOhが意中の人Peach(Jane)についていた嘘がきっかけなのです。

つまり、この物語は当然、高校生たちのビルドゥングスロマン教養小説:成長を描いた物語)として読み解くことができるけれども、それはOhにおいては端的に嘘をつかなくなることとして現れているのです。

なぜCopperはいじめるのか

さて、いじめという社会問題についての社会の感覚から言えば、「いじめっ子の事情など配慮しなくても良い」といった感じでしょうか。今でもいじめで誰かが自殺すれば、いじめっ子の個人情報がネットで晒されたりします。

でも、実際にはそうはいかない。いじめっ子側の事情も配慮しなければ、少なくともいじめを減らすことはできないでしょう。

ということで、Copperについて考えると、実は彼には決定的に何かが欠如していると言えるでしょう。

単純に、俗っぽい言い方をすれば「叱ってくれる人がいなかった」というような、上流階級特有のよくある理由も言えるでしょう。

もう少し言えば、「彼は年齢相当まで成長できていなかった」ということだと思うのです。

普通、人間は様々な発達課題をクリアし、どんどん年齢を重ねていく。例えば人生のかなり初期の段階で、自己中心性からの脱却というのがあるはずです。つまり、幼稚園児ぐらいであれば、物事を自己中心的に見てしまうかもしれない。でも、小学生になると少しずつ周りの人の気持ちも分かってくる。

でもCopperは、そこが決定的に欠如している。他人の気持ちを推し量ることができないのです。だから、彼が他人と関係を結ぶ方法も適当。

かつてOhと友人であったときには、自分のおもちゃを「下賜」していたわけだし、学校での友達もそうでしょう。付き合っているPeachとの関係もそうです。例えば、おじの校長とCopperとPeachで食事をしたとき、CopperはPeachにサラダを注文してやります。

しかしPeachからすれば、せっかくの食事会。Copperのおじはステーキを、Copperはサーモンを頼んでいる中、自分はサラダ。納得できるでしょうか?

でもCopperは「太らないから」といってサラダを頼んでしまう。そういう他人の気持ちが分からないところがある。

だから、最後にPeachの気持ちが離れていったとき、彼がバレンタインのために豪華に教室を飾り付け、その気持ちを取り戻そうとします。彼は、それで気持ちが戻ってくると本気で思っているのです。そういうところに、彼の「成長できなかった」という哀れさを見てとることができます。

InはなぜSunにAinamとの仲介を頼んだのか

GMM TVのBLカップルは、今でこそたくさんあって、そのどれも素敵だと思います(全てを見たわけではありませんが)。

しかし、その中であえてクズキャラを挙げるとしたら、間違いなくIn(Pluem)でしょう。

Inは元々Copperのギャングの一員だったわけですが、同じギャングの一員のTaeとの諍いでそちらを抜け、OhやSun(Chimon)やAinam(Puimek)と仲良くするようになります。中でも、Sunとは、Sunが家にいづらくなったこともあって、同居するようにさえなるのです。

そんな中、どうしてInがクズだと言えるかというと、彼が明らかにSunから向けられる好意に気づいていながら、Ainamとの関係の仲介をSunに頼んだからです。

そう、物語の表層をたどれば、Inは他人の気持ちを踏みにじったことになり、クズかもしれません。事実、後日談にあたる「Our Skyy」では、一旦まとまったはずのInとSunが、別の女性を機に一度別れ、Inはその女性と付き合い、別れたという顛末が語られます。

これほどまでに浮気性なBLカップルが未だかつていたでしょうか。

でも、そのInの浮気性も仕方ないところがあると思います。

というのも、Inはそれまで、ギャングというホモソーシャルな関係の中にいたわけです。ホモソーシャルな関係というのは、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー女性嫌悪)という2つのルールを基礎に置いて成立するものです。

ですから、ゲイとしてのSunを受け止められない。ましてや自分がその好意に応えることもできない。ですから、Ainamに「Sunのことはどう思ってるの?」と尋ねられてInから出てきた言葉は「でも俺はゲイじゃない」だった。

Ainamは「人を好きになるのにゲイとかレズとかは関係ない」と諭しますが、Inは合点がいかない様子です。それもそう。Inはそれまで長くホモソーシャルな関係の中でしか生きてこなかったのですから、急に「LGBTだってありだよね」とか言われても、それまでのホモフォビアという信念が簡単に揺らぐわけがありません。

そう考えてみれば、InがAinamのことを好きになったのも頷けます。

第一に、Ainamは友人だったはずですが、Inの中には「女友達」という概念が存在しない。なぜなら、彼はホモソーシャルな関係しか知らないのであり、女性はそこから排除されているからです。ですから、仮に女性に好感を持ったとすれば(それが例え友情のようなものだったとしても)、それは自動的に生殖相手に向けられる好意だと解釈するしかなくなるのです。

ですから、Ainamに「どうして私が好きなの?」と聞かれたときに、「タイプだから」、果ては「よく分からない」と答えてしまうのです。

第二に、それがInにとって、Sunとの関係を維持する手段だったからです。これは「なぜInはSunにAinamとの仲介を頼んだのか」という疑問の根幹に触れる部分です。

イヴ・K・セジウィックが『男同士の絆』の中で書いたことには、ジラールが「欲望の三角形」が深く関わっていると思いますが、根本的にホモソーシャルな関係というのは、その中で「女」を流通させることによって成立する。

ですから、男同士の関係性のなかで「あいつがあの女が好きなのならば、俺もあの女が好きなはずだ」と欲望を模倣し、「お前にこの女を譲ってやるから、男同士仲良くやろう」と「女」を媒介にした関係を成立させる。

本題に戻ると、Inが知っているのは、そういう世界だったということです。

Inは、明らかにSunから向けられる好意に気づいていたでしょう。InとSunが同じベッドに寝ているときに、Sunは良いムードを感じとって、顔を近づけます。このままいけばキスしそうな雰囲気です。

そのときに、Inは「俺はAinamが好きなんだ」と告げる。

それは、目の前に迫りつつある同性愛=男同士の友情を崩壊させる危機を排除し、かつての友人関係を取り戻そうとしたのに違いありません。

言い換えれば、Inは脳内で「こいつと恋愛関係になると、俺はゲイになってしまう。Ainamを媒介にすれば、男同士の友情を取り戻せるのではないか」と無意識のうちに考えたのではないかということです。

Ainamからすればはた迷惑この上ない話ですが、Inに同情せざるをえません。彼はそれしかやり方を知らなかったのです。

Ohはなぜ「17歳の曲がり角」を曲がれたのか

最初に述べたとおり、僕は「Edge of 17」を「17歳の曲がり角」と訳すべきだと思っています。

そこで、ではなぜOhが「17歳の曲がり角」を曲がることができたのかを考えてみましょう。

その要素は3つあると言って良いでしょう。

1つ目は、彼にも友人ができたこと。クラブという居場所ができ、ルービックキューブという得意技ができ、トランポリンができたこと。やはり思春期から青年期にかけての重要な問題はアイデンティティが確立できるかどうかというところにありますから、居場所ができるということの重要さは指摘してもしすぎるということはないはずです。

2つ目は、Pong(Lee)のようなギャングと関係を持てたこと。作中では「暴走族」と呼ばれることもあるグループです。もちろんCopperのようなホモソーシャルな色合いの強いギャングであることは間違いないのですが、そこにOhが居場所を持てたということは、やはり重要なことだろうと思います。

言ってみれば、彼を「男にした」わけです。そのやり方が荒療治だった感はありますが、Ohの持つ底力のようなものを引き出した点は肯定的に評価されるべきです。おそらく、OhはスタートからしてPongたちに嘘をついていなかった。

そもそもが「母に出席停止のことを隠したい」という事情でPongたちのところに転がり込んできたわけですから、彼らには嘘をつく必要も無かった。そのことが良い結果を招いたのでしょう。

3つ目は、Peachの存在です。Peachもそれはそれで結構難有りの子なのですが、この2人がお互いを成長させていく。Peachに恥じない男になりたいと頑張るOhに、Ohに純粋に自分を認めてもらうことのできたPeach。この2人の相性が、存外に良かったということでしょう。

まとめ

ということで、短めのシリーズだったこともありますが、結構サクサク見られて面白かった印象です。何より、登場人物の描かれ方がしっかりしている。そういう点で、早く僕の字幕を承認していただいて、1人でも多くの日本人に見てほしいと思うのですが、しばらくは難しそうです。