現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

アニメ「冴えない彼女の育てかた」はなぜ最悪なのか

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アニメ「冴えない彼女の育てかた」は、丸戸史明の同名ライトノベルを原作にした作品である。

主人公・安芸倫也を中心に、サークルとしてゲームを作成していく高校生たちの姿が描かれる。

 

     ◆

 

僕が、種々の浅薄な反論を想定しリスクヘッジして、より温和なタイトルを選ぶことをせず、あえて「最悪」と断じるのには、理由が無いわけではない。確かにこの作品は「最悪」である。

一方、このように考える者もいるだろう。

「最悪」なのにも関わらず、なぜ現在この作品の原作ライトノベルは全10巻を数え、漫画化され、アニメは2期放送され、おまけに映画化までされ、ゲームにまでなっているのか。「最悪」なのにも関わらず、なぜここまで人気なのか。

しかし、そうした指摘は当たらない。むしろこの作品は「最悪」であるが故に人気なのだ。

端的に結論を先取りすればこうである。

この作品は、去勢された男性主体の回復のためだけに存在する、女性をとことん搾取し、踏みにじった作品だ。

 

     ◆

 

この作品内で、反復されるシーンがある。

それは、ある者が話しているのを、ある者が聞かず、別の会話をしてしまう、というシーンである。

例えばそれは、安芸倫也が、友人・上郷喜彦と会話する場面で見られる。

上郷「よっ、倫也!」

安芸「喜彦か」

上郷「今年も同じクラスだな」

安芸「今忙しいんだ。邪魔しないでくれ」

上郷「なんだよ、冬アニメの総評か? それとも3月売りラノベのレビューか?」

安芸「そんなのとっくに終わってる。アニメなら最終回放映後24時間以内、ラノベなら発売3日以内、ゲームなら1週間以内。ちゃんとネタバレありなしを分けて誰が見ても楽しく役に立つ情報を発信するのが俺の使命だ」

上郷「大手ブロガーは言うことが違うね。で、結局何やってんだよ」

安芸「ふっ、これはな、とても重要なミッションなんだ。俺の新たなオタク人生の始まりにふさわしい──」

上郷「おい、あれ見ろよ、倫也!」

安芸「質問しておいてこっちが答えたらいきなりスルーってのは友達としてどうなんだよ!」

(1話「間違いだらけのプロローグ」)

これは何を意味するか。

上郷は、安芸倫也の一種の「洗脳」によってオタクになったものの、まだその洗脳が完全でない=三次元に依然として興味があるような素振りを見せる。

その中で、上郷が安芸の話を聞かないということは、上郷>安芸のヒエラルキーを厳然と出現させる。つまり、オタクはオタク以外の者の下位に置かれる。

これを遺憾に思うならば、映画『桐島、部活やめるってよ』などをご覧いただければいいし、5話「すれ違いのデートイベント」での、ショッピングモールでの安芸の独白を見て頂ければいい。

そして、このように話が無視される構造は、別の形で反復される。安芸と加藤恵の間でである。このとき、安芸は加藤の反論を無視して、話し続ける。

安芸「違う! 加藤、お前は地味なんかじゃない!」

上郷「ちょっと、急にどうしたの」

安芸「自分のこと地味だなんて言うな! そんな風に間違ったイメージで自分を決めつけるのはやめろ! 加藤、俺が保証してやる。お前は地味なんかじゃない」

上郷「安芸くん?」

安芸「お前はキャラが死んでるんだよ! ただ単にキャラが立ってないだけなんだよ! 中途半端なんだよ! だから目立たないんだよ!」

(2話「フラグの立たない彼女」)

ここには、ここ最近女性の主体性を損なわせる男性の傲慢な態度として悪名高いマンスプレイニングの傾向が見て取れる。何も知らない女性に、よく事情を知る男性(オタク)として、教えを開陳しているわけである。

このような安芸>加藤のヒエラルキーを組み合わせれば、この作品におけるヒエラルキーの総体が明らかになる。

「オタクではない男性>オタクの男性>女性」というヒエラルキーである。

そのとき、「オタクの男性」は去勢された男性主体として存在する。そのことは、現実の女性に興味が無いような素振りにも見えるし、また、企画書をなかなか書けずにいるゴールデンウィーク中の安芸の様子からもうかがえる。

そして、ヒエラルキーでより下位に(作者によって)位置づけられる加藤は、その安芸を勃起させる道具として用いられる。

加藤「だから頑張って! 倫也くん! 私を、誰もがうらやむようなヒロインにしてね!」

安芸「ああ、約束する。お前を、胸がキュンキュンするようなメインヒロインにしてやる!」

(3話「クライマックスはリテイクで」)

そう、安芸にとって、女性たちは、自らを勃起させる道具としての役割しか持ってはいない。安芸は、例えば加藤を「ヒロイン」という枠の中に嵌めようとする。

安芸「俺は確かに加藤にもっと目立てと言った。だが、あんな風に悪目立ちしていいとは言ってないぞ! 加藤! お前自分の立場ってものが分かってるのか!」

加藤「校内一のオタク男子に無理やりゲームサークルに引きずり込まれた主体性のない高校二年の女子?」

安芸「それは変身前の仮の姿で、本当の加藤恵は、誰もが胸をときめかせる清く正しく美しいギャルゲーヒロインなんだよ!」

加藤「それ改めて聞かされると、どういうリアクションしていいか悩むよね」

安芸「それはこれからゲームをプレイしてくれる主人公たちのためだけに存在するヒロインが、あろうことかその主人公を差し置いて他の男と」

(4話「予算と納期と新展開」)

安芸は、加藤の人間としての側面を否定し、ただ「(俺のための)ヒロインたれ」と命じる。安芸にとって、女性を支配すること、女性に対してイニシアチブを握り続けることは、重要な意味を持っているらしい。

安芸「ちょっと待って!」

霞ヶ丘「倫理くん?」

安芸「確かに面白い。文句なしに面白いんだけど、でも、もうちょっとだけ結論を待ってほしいんだ」

澤村「いい加減にしなさいよ倫也! もう3日も塩漬けじゃない。」

安芸「ごめん」

澤村「何もしないどころか足を引っ張るだけ。作り手のモチベーションを避けるだけ。こんなの典型的な百害あって一利なしのディレクターよ。もういいじゃない。これで充分面白いじゃない。あんただってそう言ったじゃない」

安芸「ごめんそれはできない」

澤村「倫也!」

安芸「確かに面白いんだけど、凄いんだけど、なんかこれじゃ満足できないんだよ、俺」

澤村「そんな感覚的なこと言われても訳わかんないよ」

安芸「うん、正しく伝えられないのは俺が悪い。それでもだめだ。このままじゃ、俺の作品じゃなくなる」

(5話「すれ違いのデートイベント」)

 と、ここまで見てきたところで、次のように反論する者もいるだろう。

「とは言いつつ、安芸倫也の思い通りにならないヒロインたちが、この物語を面白くしているのではないか」と。

その批判は、途中まで当たっている。この物語に面白さがあるとすれば、それはヒロインたちが安芸倫也を「食ってやろう」としているところにある。

しかしその批判が、「途中までしか」当たっていないのは、結局、そうしたヒロインたちが安芸倫也の「ゲームを作る」という目的に回収されているからである。これはもはや暴力である。暴力的なまでの抑圧である。

 

     ◆

 

そもそもアニメとは二次元であるが、作品をメタ的にその枠組みで論じても意味はないのであって、仮に、この作品世界を「三次元」として見てみよう。

では、その中で、例えば加藤を、ゲームの中に〝ヒロイン〟として取り込むということは何を意味するのか。

それは「二次元」にするということである。

では、「三次元」の存在を「二次元」に落とし込むとは何を意味するのか。

すでに写真論の豊富な蓄積があるように、それは「所有する」ということを意味する。

「三次元」を「二次元」にするとは、すなわち奥行を捨象し、平面に取り込むことを意味する。しかし、この「奥行」とは、単に平面をx軸とy軸の座標で表したときの、そのどちらとも垂直に交差するz軸を示すわけではない。

ここには「リアリティ」という含意がある。そして、ここでの「リアリティ」とはそのまま「人間としての尊厳」と言い換えても構わないだろう。

言いかえれば、安芸の企みとは、加藤の「人間としての尊厳」を奪い取り、「俺の物になれ」と言っていることに他ならない。

別にこれは熱烈な愛の告白なのではない。もっと素朴な欲望の吐露である。

そのとき、果たしてこの作品は、多少話の筋が面白いからと言って(個人的にはそう思わないが)、加減してプラスになる類のものではないだろう。