現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review12:宮下奈都『羊と鋼の森』

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文体の特徴を記述するのに、もしかすると計量的な分析が有効なのかもしれないが、しかし小説を読んだときの「印象」というのは、畢竟、「印象批評」によってしか不可能なのではないかという気がする。

そういうわけで、宮下奈都の『羊と鋼の森』という小説の文体について言えば、それは静謐な雰囲気でありながら、かつどこか確実さを感じさせるようなところがある。

タイトルの「羊と鋼の森」というのは、羊のフェルトと鋼から発せられる音が、主人公の外村には「森」のように感じられるというのだが、それはどことなく宮下奈都の文体そのものと似ている。

宮下奈都の物語は、いつも最悪な事態になろうと、木漏れ日のような明かりが射し込んでいるような気がする。どんな絶望にも、希望の予感がある。

外村は学校のピアノの調律の場面に立ち会って感動し、調律師を目指すことになる。その点でこれは、ある種の「お仕事小説」と言えるのであるが、小説のほとんど、彼は壁にぶち当たっている。

と言われたって、素人には調律の微妙な違いなど分かりはしない。「もう少し明るい音に」みたいなリクエストが作中でも登場するが、果たしてそれが素人にも聞きわけられるものかは疑問だ。

それでもって、彼が壁にぶつかるというのは分からないように思われるのだが、しかし分かるところもある。門外漢には分からないような些細なあと一歩が越えられない。その小さな一歩につまずいている。そういう歯痒い向上心みたいなものがある。

外村はその中で和音と由仁という一卵性双生児らしいピアニストの姉妹と出会うことになる。この二人は好対照なピアノを弾くらしい。その中でも外村は、和音の弾く静かだが情熱的な音に惹かれる。

結局、和音は開花することになるので、外村はその卵を見出していたということになるのだが、それが外村に天賦の才があったということを意味するのではないと思う。難しいが、彼は門外漢なりに、その純朴な、穢れなき耳で可能性を聞き取ったのであろう。

宮下奈都が描写するそうした敏感な音の表現力にはほとほと驚かされる。もうため息が出る──というか、ため息をつくしかないような。

読者はその外村の聴覚を、当然外村の一人称視点から読み取るので、たしかにそのようにしか感覚できない。それが寂しくもある。もし別の登場人物からの目線であれば、その音がどう聞こえたのか気になる。

しかし、外村の感覚を通してしか音が描写されないからこそ、彼の可能性に寄り添うことができるというのも、また、事実である。

けれどもこれほど悔しいと思ったことはない。もし僕に、クラシック音楽の素養があったら、この小説はどんなに楽しかったろう。描写される音は僕の耳に空想のまま響く。さっぱり実感を伴わない。それでこの小説の魅力は半減してしまっているに違いない。僕はこの物語をまだ楽しむことができていない。ただ、森に差し込む木漏れ日を仰ぎ見ることしかできていない。