review07:津村記久子「アイトール・ベラスコの新しい妻」
この小説は、いくつかの掌編と呼ぶべきような物語が重なり合って、1つの物語を描いている。
「いじめ」が社会問題となり、許されざる大罪の1つに数え上げられて日が経つが、だからこそ、いじめられっ子は慈しむべき被害者として、いじめっ子は懲らしめるべき加害者として記述され、いじめられっ子は時に雄弁に過去を語り、いじめっ子は声を潜める。
だからといって加害者を庇おうと思っているのではない。少なくとも僕には、吉本隆明が『真贋』のなかで、「いじめられっ子もいじめっ子もどっちもどっち」と喝破したような豪胆さは無いし、勇気もない。
この物語の掌編の登場人物たちは、いずれも小学校時代の同級生という点で過去を共有しているぐらいしか共通点が無いように思われるが、掌編1つ1つを取り上げてみると、共有するモチーフがあることに気が付く。「いじめ」と「不倫」である。
それぞれについて詳述するのは、この作品の本筋から離れてしまうような気がする。ただ分かるのは、どちらも「気づいている人と気づいていない人」というふうに人々を分割しているということである。
そう言えばこの前に掲載されていた「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」もそのような非対称を描いていた。
それに似た感覚を覚えるのである。いじめに気づいていないこと、あるいは見て見ぬふりをすること。それは、不倫されることという風に応酬される。気づかれずいじめていた本人が、不倫されていることに気づかない。
その非対称を「暴力」と呼ぶのであれば、暴力は連鎖していく。国境を越えて。