現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review06:津村記久子「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」

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国木田独歩に「忘れえぬ人々」という短編がある。宿屋で会ったある人が、世の中には一度会っただけなのにどうしてか忘れられない人がいるという話である。

国木田独歩の特筆すべき点は、作中に二項対立を自ら提起しながら、それを自分で破壊して──好意的に言えば、「アウフヘーベン」して──その対立を乗り越えてしまうところにある。そして、その国木田独歩の「アウフヘーベン」を、読者はどことなく経験的に納得できるというのが、素晴らしい。

この「うどん屋ジェンダー、またはコルネさん」を見て、僕はそれを思い出した。1月に1度行くうどん屋で会う客──「私」はその女性をコルネさんと呼んでいるが、彼女のことを忘れずに覚えている。

その日もうどん屋に行った「私」の、1席空けた席にコルネさんはやってきて、「初めてです」と店主に伝える。こってりとした店主はコルネさんに、親切にうどんの食べ方を指南して見せる。

「私」はそのとき、この店主が女性客にしか話しかけていないことに気がつく。「うどん屋ジェンダー」である。女性だから親切に食べ方を指南している。全く問題は無さそうだ。例えば、映画館のレディースデーのような。

しかしその日、コルネさんは店主に怒りを露わにする。別に「あんた性差別主義者ね!」と怒鳴って見せるのではない。彼女は職場に近いから立ち寄ったうどん屋で、何度目の来店か尋ねるくせに一向に自分の顔を覚えてくれない上に、口うるさく食べ方を指南されることにうんざりしたのだった。

うどんを食べずに、怒ったまま店を飛び出したコルネさんに、「私」は夜食に食べようと買って帰った生うどんを譲る。

しかし2つのことに思いを致さずにはいられない。

1つ目。コルネさんは「私」のことを覚えていなかったではないか。もちろん、「私」の記憶力が尋常ではないとか、コルネさんがうどん屋に来るのはとても疲れた日だから周りの人に注意を及ぼすほどの余力が残っていなかったとか、そういうことも考えられる。しかしそれは、人気店でたくさんの客が訪れるうどん屋の店主と、さして変わらないのではないか。

もちろん、彼女がうどん屋の店主に怒ったのは、「わざわざ何度目の来店か訊くくせに」顔を覚えてくれないという部分なので、別に来店の回数を確認し合っているわけでもない客の顔を覚えている筋合いなどないとも言える。

2つ目。果たして「私」は、この後このうどん屋に行くだろうかということである。少なくとも「私」は、うどん屋ジェンダー観が歪んでいることに気付いたはずである。

性差別主義を糾弾し、すべてのジェンダーの人々に優しくあろうとするなら、こういう店には二度と行くべきではないのかもしれない。しかし、「私」は来月もこのうどん屋に来るのではないか。

日常生活において、私たちは時に差別の香りを感じながらも、それはそれとして付き合いを続けることがままある。そういう日常を、文字にしてみせたこの作品は、何かを「糾弾」しているのかもしれない。