現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review10:津村記久子「個性」

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「個性」というのは何だろうか。

というのがこの作品のテーマだとしたら、いまひとつという感想を抱かないではない。

乱視のような状況の秋吉には、坂東が見えないという。それは「無個性」だから見えないのか。しかし一方で「私」は、坂東が「無個性」であることに「個性」を見出しているし、坂東が「個性」的になろうとしたところで、かえってそれが「非-個性」的に映る。

そこで「個性」という問題それ自体が、もはやどこに帰属するのかと思う。「個性」をめぐる問題は、果たして坂東に帰属するのか。しかし、坂東が坂東らしからぬ様子で「個性」的になろうとすると、秋吉はその「個性」から坂東を見ることができるようになるが、「私」にとってみればそれは「非-個性」なのである。

「「個性」がどこに帰属するのか」。端的に答えを出せば、それは当該人物の周囲の人物のなかにあるものでしかないのだ。そして秋吉がいみじくも示しているように、それは「感じ取られる」ものでしかない。そして「感じ取られる」それは、「今までもそうであった」という慣例と経験の積み重ねでしかない。

そのことを示したのがこの短編だと思うのだが、はっきり言えば「だから何なのだろうか」。その程度のことは、「個性とは何か」と考えたことのある人なら思いついたことのある考えだろうし、そこにもうひとひねり欲しかったというのが率直な感覚である。