現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review04:小川洋子「夕暮れの給食室と雨のプール」

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文学とは、その作品全てを通して、何かを定義しようとするものだという話を聞いたことがある。今となっては、それが誰から聞いた話なのか、あるいはどこかで読んだ話なのか、それすら思い出せない。

それが正しいとするならば、この短編は、その全てを通して「夕暮れの給食室と雨のプール」というタイトルにある感覚を定義しようとするものなのかもしれない。

「わたし」がある町に引っ越してくるところから始まるこの話だが、目を引かれるのは、そこにやってくる宗教観誘員らしい親子連れである。そもそも僕は、宗教勧誘員と言えば女性2人組と信じて疑ってこなかったので、寡聞にして親子連れの宗教勧誘員のことは知らなかった。

その父親の中では「夕暮れの給食室」と「雨のプール」という関係無さそうな2つのモチーフが分かちがたく結びついているらしいのである。そして、その感覚というのは、何か換言できるものではない。だからこそ、そこにこの小説の画期がある。

彼の中には、自分は当たり前のことができないという劣等感のようなものがあり、それを象徴するのが「夕暮れの給食室」と「雨のプール」だったのだろう。彼が描写するように、給食室というのは、全てが均整をまとって調理される場所であり、それも並みの食堂では考えられないほど大量に、それでありながら料理ごとに個性を生み出さず生産するシステマティックな工場である。

「雨のプール」。プールの授業で泳ぐことができず、その劣等感に苛まれていた彼からすれば、一斉に、均等に給食を調理する給食室が厭らしく感じられたのであろう。それが臭気となって彼を襲い、彼を学校から遠ざける。

そこで彼を救った祖父のとっておきの場所、既に廃れてしまったチョコレート工場は、そうしたシステマティックな「工場」の終焉を見せることとなったと言えるだろう。というのも彼は、学校にせよ給食室にせよ、均等に何かを生産しようとする「工場」というものに嫌気が差していた。そこに廃れた工場の存在が、そんな「工場」の終焉を想起させたのであろう。そうして彼は、その劣等感から脱出したのである。

小川洋子は「終焉」を想起することで、既存の枠組みから脱出しようとすること、いや、より残酷に言えば、何事も終焉を迎えるのだという絶望を描きたいと思っているのかもしれない。文春文庫の『妊娠カレンダー』に収録される「ドミトリイ」もまた、いつまでも続くと思っていた学生寮の終焉を想起させて物語が終わる。

modernculturecritiques.hatenablog.comそう考えてみれば、その彼が宗教勧誘員であるというのも頷けよう。彼がどのような宗教を信じているのか作中では明らかにされないが、宗教というのは畢竟、終焉の想像力を指し示すのではないか。

学校や給食室という「工場」を、まさしく外から眺めることとなったメタ的な立ち位置を取る彼が、宗教勧誘員であるという事実は、まさしくお似合いなように思われる。