review09:津村記久子「運命」
津村記久子を初めて知ったのは、「行列」という短編だった。
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それで言うと、この「行列」という短編と、「運命」という短編はよく似ている。というのも、津村記久子は時として、日常のありふれた行動に抽象性を見出し、その抽象性のまま作品に仕上げてしまう人なのかもしれない。
「行列」という作品には、まだ話の筋らしき具体性があるのだが、「運命」という作品にはそれがない。抽象的に、「誰かに道を訊かれる」とか、そこから帰着される「群れで生きる」というようなことについて、淡々と、ありうべきケースが陳列される。
この陳列は、それぞれの小話があちこちのカテゴリから、あちこちの角度から、何か抽象的なものを照射しようとしているということが気づく。
もうひとつ、「行列」と違う点を明らかにするとすれば、「運命」にはその抽象性についてなんらの解ももたらされていないことに気がつく。この小説は、その抽象性を示しただけである。
読者には高度な読解行為が要求される。つまり、普通小説を読むと、2つの読解を同時にする。1つ目は、話の筋を追って、そこからなにがしかの感慨を得るというレベル。これが卑しい行為であるというわけではないのだが、後者と相対的に考えて「低次な読解」としよう。
2つ目は、その作品を「斬って」、そこから「哲学」と呼ぶべきような何かを吸収するというレベル。これを「高次な読解」としよう。
普通、作品を読むときは、この低次な読解と高次な読解を往還しながら、その人なりの「文学」としての像を形成するのだろう。尤も、後者の高次な読解と言っても、「教訓的か否か」という批評方法しか持たない人もいるのであるが(それこそが真に「低次」と呼ぶべきなのかもしれない)。
この作品は、低次な読解をすっ飛ばして、高次な読解を我々に迫る。そうした作品が世の中にはたまにある。その1つとして、この作品も陳列することにしよう。