現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review01:津村記久子「行列」『新潮』

f:id:kt-toraoka:20191213052555j:plain

『新潮』2019年9月号に掲載された津村記久子「行列」は、同号に掲載された千葉雅也「デッドライン」よりも、ちょっと感動的なまでに良くできている。

内容は至極単純で、主人公の「私」(小川)が行列に並ぶという話である。冒頭は次のようである。

 終電で最寄り駅までやってきてシャトルバスに乗り、あれが展示されているという巨大な建物に入場し、列の最後尾に並んで二時間になる。

「私」は行列に並ぶ。その行列の先にあるのが何かと言えば「あれ」なのであり、その「あれ」が何なのかは不自然なまでに明らかにされない。ただ何か、「あれ」のために人々は並ぶのである。

その後、前を並ぶ池内さん夫妻の会話から、それが前に来日したのは東京オリンピックの年(1964年)であると明らかにされることはあったとしても、「あれ」が何かは明らかにされないし、それがどのジャンルのものなのかも、おそらく絵画か何かの芸術作品じゃないかと推察させる箇所があるだけで、特定はされない。

そして、その行列が十二時間続くということが明らかにされ、十二時間「あれ」のために人々は並ぶのである。

さて、問題は、その「あれ」というのが、どれなのか、ということに到達する。しかし、それを特定する材料は限りなく少ないので、判然としない。

そのとき、「あれ」は抽象的な何かと捉えるより他にない。

つまり、この小説で取り上げられている行列とは、何か具体的な行列なのではなく、非常に抽象的な行列という概念そのものということになる。

この小説は、ある非常に漠然とした概念を、物語の伴奏の上に展開させた作品なのである。

行列に並ぶ人々に無料で供給されるサービス、景観が見られるエリア、行列に販売されるグッズやポケットWi-Fi、行列の人々に向けて延々とリピートされる動画。

どれも、何か一つの行列には収斂させられない、しかし、あちらこちらで経験したことのあるような行列の総体として、この行列が構成されていることが分かる。

前に並んでいたのは、池内さん夫婦である。後ろに並んでいたのは、名越さんという母娘である。その娘は、流されている映像に出演する俳優WTについてだとか、グッズについてだとかについてに話している。そこに「私」も混じり、いくつか会話を重ねる。

 後ろの娘さんと話をするようになってから、お金の話ばかりしてるなと思い始めた。娘さんは、この行列に発生するお金の行き来にものすごく聡いけれども、同時に消費も厭わないようだ。娘さんが「~が得」とか「~すると利益が出る」という話はするけれども、「~が好きで」購入するという話をしないことも特徴的だと思った。

これは、「行列」という概念について、極めて示唆的なことを語っているだろう。すなわち、行列とは、何かのために並ぶという手段なのではなく、行列のために行列に並ぶという目的なのである。

行列とは普通、「~が好きで」並ぶはずなのであるが、それが、並んでおいたほうが「得」であるというような、行列自体を目的化していく。それを、運営も意図しているのである。

〔前略〕グッズ売場では、行列の売り子が売らない「そこでしか買えない」ものを売り、行列の売り子は「そこで必要なもの」を何度も何度も訴求しながら売る。あれが無料で見れるなんて、と私は何度も言ったけれども、あれを見るための行列には消費がつきまとっている。

「行列」自体が目的化する、という言い方が正しくなければ、「行列」という場所自体が目的化すると言っていい。

これは、例えば、「ディズニーランドのあのライドに乗りたい」といったような具体的な目的のために「ディズニーランドに行く」という手段を選ぶのではなく、「ディズニーランドに行く」という目的のために「ディズニーランドに行く」ようなものだと言える。

すなわち、その場所にいること自体が目的となる。

しかし、その行列に「私」はいられなくなる。というのも、次のようなアナウンスがあった。

 十時間の地点まで来たところで、係員がやってきて、「えー、あれの作者の息子によるあれの模写も来日しております、あれの前は込み合っておりまして、このように長い行列を作っていただいてはいるのですが、あれの作者の息子によるあれの模写の前は比較的混雑しておりません、あれは見ることができませんが、あれの作者の息子によるあれの模写と、その他のあれにまつわる何かを見たいという方も受け付けております、そういった方はおられませんでしょうか?」と長い文言を連呼し始めた。〔後略〕

前の池内さん夫妻は、ここで行列に並ぶことを断念する。そして「私」もそれに釣られて、この模写の方へと移るのである。

しかし、考えてみれば、この池内さん夫妻だけは、行列の先にある目的を見失っていなかった。作中ずっと、池内さん夫妻は、見られるであろう絵画?に対する期待を述べ、あくまでこの行列は手段に過ぎなかったのだと思い起こさせてくれる。

「私」が語り手として丹念に行う行列の描写は、その点において、行列を目的化している。しかし、その「私」を行列から引きずりだすがごと、「行列」からも引きずりだすのである。そして、目的を思い出させる。

けれどそもそも、「私」にとって、その行列の先にあるものは期待の埒外だった。はっきり言えば、そこに何があろうと問題ではないのである。だからこそ、この行列は抽象的なものになりえた。「私」の行列の先にある対象が、代入可能な変数であるからこそ、この物語は、どのような行列をも代入できる普遍性=抽象性を持ちうる。

「本当にいろいろあったんですよ。〔中略〕次の機会にまた見れるかどうか」

 改めて外国に見に行くお金も時間もないし、などと私が言い募る間、老婦人は黙ってうなずいていた。

「あれはすばらしかったですよ。本当にすばらしかったですけれども、もっと苦労せずに見られて、同じくらいいいものもありますよ」

老婦人の指摘は、行列の自己目的化に冷水をかけるものだろう。別に並ぶ必要は無く、並ばなかったとしても、並んだのと同じだけの経験ができる。

そこで、前半の池内さん夫妻の会話を思い出したい。

 しおりを挟んだページを探していると、ねえ、小川さん(私の名字だ)はあれの他のをごらんになったことはあるんですか? と池内さんの奥さんにたずねられる。私は、ないですね、海外に行ったことはないし、これまで来日したのは全部東京に来ただけだったから、と答える。

「それは人生の損をしていますね」

「そうかもしれないですね」

厳密に言えば、「あれのほかの作品」であるから、この行列の先の「あれ」ではない。しかし、それを「人生の損」と言う。

だが、老婦人が言うように、「もっと苦労せずに見られて、同じくらいいいもの」があるとするならば、果たしてそれは端的に「人生の損」と言っていいものなのか。

「駅ビルの地下一階に、おいしいお蕎麦の店があるって友達から聞きました」

 私はその名前を教えてもらい、毎日と言っていいぐらい前を通るけれども、一度も入ったことのない店であることに気がついた。

「知りませんでした」

 私は老婦人に言った。そして、自分に対して確認するように、知らなかった、と呟いた。

普段極めて身近にあるにも関わらず、十二時間並ばなければ見られない「あれ」よりも「もっと苦労せずに」食べられて「同じくらいいいもの」がある。

ちょっとここまで来ると、感動的なものがある。

陳腐な言い方をすれば、行列に並ぶことそれ自体を自己目的化する傾向に警鐘を鳴らし、自分の身辺の「同じくらいいいもの」に目を向けよということなのだろう。

より大仰な言い方をし、例えばこの抽象的な概念としての「行列」を「人生」のように読み替えてみたらどうだろう。

もちろん、「人生」が自己目的化するのは仕方がない。人間は、生きる意味を探しながら、結局のところ「生きるために生きる」のしかないのだから。

けれど、それが必ずしも、十二時間後に来るべき何かのためである必要はない。何かのために並ぶような人生は、果たしていかがなものだろうか。

そこで、その行列=人生をエスケープしようではないか。そこにある、「同じくらいいいもの」に目を向けよう。

そう考えると、この小説は、ちょっと感動的な様相を呈しているように感じられるのである。