現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

アメリカ民謡研究会Haniwa序論:「四弦奏者のための、孤独の奏法。」を聴く

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四弦奏者のための、孤独の奏法。 / 結月ゆかり

僕はこれまで2回の記事で、アメリカ民謡研究会Haniwaの楽曲における「再現性」と「ジャンル自体への疑い」というのが鍵になってくるという風に述べました。そして、そうした音楽を無化するような取り組みに比して、その歌詞が詩的であることで、その点において「ウタ(歌/詩)的」であるというような逆説についても述べたところです。
まず今回の楽曲で気が付くのは、ここで初めて「作者」が姿を見せたということでしょう。

というのも、ボーカロイドの楽曲において、基本的にPと呼ばれてきた作曲者兼作詞者たち(以下「作者」)は、姿を隠してきた。それは、あくまでボーカロイドに対するプロデューサーという立場にこだわったためだと思います。

さて、その上で今回の楽曲について見ますと、「孤独の奏法」とついているから、作者が孤独であるということが分かる。冒頭から(おそらく)「作者」の足が写りこんでいる。この2つの点において、「作者」が姿を見せたと言えるのです。

これはこの「作者」にとっては非常に面白いことです。例えば、1曲目について、僕はかつて、「従って、この楽曲を聴く上でのキーワードとは「再現性」にあるのではないかと思います。」*1と述べました。

考えてみましょう。「再現性」を、僕は次のように説明しました。

PVを見ていて気が付くのは、彼が楽曲を作っていく過程が、極めて明確に示されていることでしょう。当然「実験」であるならばそれは当たり前です。というのも、「実験」において重要なのは再現性、つまり他の人が同じようにやれば同じような結果が得られるということだからです。

アメリカ民謡研究会Haniwa序論:「二台のドラム、一本のベース、合成音声よりあなたへ。」を聴く - 現代文化論叢

 「他の人が同じようにやれば同じような結果が得られるということ」こそが、「再現性」なのでした。しかし、ここに来てこの作者が姿を見せた。

例えばこれは、「署名」の問題と言えるかもしれません。ドゥルーズガタリは、『哲学とは何か』の中で、次のように述べています。

 多くの問題が、ひとりの老人の幻覚に襲われた目のまえにひしめき、彼は、あらゆる種類の哲学的概念どうしが、そしてあらゆる種類の概念的人物どうしが対峙しているのを見るだろう。そして概念たちは、まずもって、署名が入ったものであり、署名をずっと残すものである──アリストテレスの〈実体〉、デカルトの〈コギト〉、ライプニッツの〈モナド〉、カントの〈制約〔条件〕〉、シェリングの〈勢位〉、ベルクソンの〈持続〉……。(後略)*2

哲学的な概念には「署名」が入る。それが人文学の特徴と言えるかもしれません。一方、理系学問では「署名」は入らない。例えば、三平方の定理は、ピタゴラスが発見していなかったとしても、三平方の定理なのですが、アリストテレスの〈実体〉という概念は、アリストテレスという署名からは切り離すことができない概念なのです。

 

     ◆

 

ここで今回の楽曲に戻りましょう。

最初の楽曲は、「再現性」をテーマにしており、極めて理系的な雰囲気を漂わせていたものの、ここに至って、「これを作ったのは私である」というアピールを始めた。この楽曲に「署名」を始めたとも言えるでしょう。

その点が、最初の問題提起にも見える。「問 独りぼっちになってしまったエレクトリックベース奏者は、どのようにして再び音楽を始めるのか。」というのは、「独りぼっち」ではないエレクトリックベース奏者にとっては無関係であり、普遍性ある問いとは言い難い。

「普遍性ある問いとは言い難い。」ここが難しいところです。なにせこの楽曲の歌詞は「誰しもやがて一人になる。」と始まり、その点において、普遍性を担保しようとしている様子です。

しかし、冷静に考えれば分かると思いますが、「誰しもやがて一人になる。」というフヘン(不変/普遍)の問題規定は、だから「独りぼっちになってしまったエレクトリックベース奏者は、どのようにして再び音楽を始めるのか。」と問うことに、安直には接続しないように思われます。

言い換えましょう。「誰しもやがて一人になる。」という普遍の事実と「独りぼっちになってしまったエレクトリックベース奏者は、どのようにして再び音楽を始めるのか。」という特殊の問いかけの間には、ある種の論理的な跳躍がある。

この点を評するとすれば、表象の上での「詩的言語」に縛られることなく、それをメタで捉える「詩的構造」への依拠と言えるかもしれません。この論理的な跳躍は、その構造自体がすでに「詩的」と評するに値するものと思うからです。(実はこれは前作に見えていたことです。)

 

     ◆

 

 

実は、今回の曲のシ(詩/詞)は大したことが無いのです。

ほとんどモノローグによって占められていると言ってもいい。

これまで特徴的だった「迂遠な表現」や「研ぎ澄まされた抽象性」と言ったような特質が削ぎ落とされて、表象の側面では「詩的言語」を用いていないと言えるでしょう。

しかし、ではこの楽曲が詩的ではないなどとは言えない。

それは先に見たとおり、この楽曲が「詩的構造」を持っているという点にあるからです。これが、この楽曲において重要な点ではないかと思います。