現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

ジャニヲタ研究大事典00:ジャニーズは文学である

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厳密な研究論文ではないので、「ジャニーズ」についての細かい情報を記すつもりはない。端的に、以後記事で用いる「ジャニーズ」とは、ジャニーズ事務所所属の男性アイドルに対する一般名詞であると理解してくれればいい。区別して、ジャニーズ事務所のことは、そのように記すか、あるいは単に「事務所」と呼ぶ。

ジャニーズの歴史は、実は案外長いのだが、とは言うもののせいぜい今「現役世代」と呼べる世代の記憶にあるのは、せいぜいたのきんトリオであり、多くの人にとってはSMAPぐらいだろうと思う。

以下、一連の記事で取り上げるのは、いずれも現在のジャニーズと、それを取り巻くファン(以下、「ジャニヲタ」)についてであるので、必然的に、既に解散したSMAPや、ファンが高齢であると予想できる近藤真彦らに触れることは無いだろう。おもに眼中にあるのは、嵐以後にデビューしたグループと、まだデビューしていないジャニーズJr.についてである。

 

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アイドルとは、なぜかくも神秘的な存在であるのか。

この命題は、女性アイドルの大量発生に伴って、男性アイドルにのみ用いることの命題となってしまった。

日本において、男性アイドルが、ほとんどジャニーズの同義語として用いられることにはわざわざ註釈は不要だろう。もちろん、韓流アイドルや、その他の有象無象のアイドルたちの存在を無視するわけではない。しかし、そのいずれもが、ジャニーズを真似し、あるいはジャニーズと決別した経営スタンスを持つ点で、やはりジャニーズの影響下にあると言える。

再び問い直そう。

アイドルとは、なぜかくも神秘的な存在であるのか。

植田康孝は「アイドル・エンタテインメント概説」と題した一連の論文*1の中で、アイドル愛にあふれる分析を展開しているが、その対象が女性アイドルであることも相まって、その神聖性には着目できていない。

それは植田の落ち度ではないだろう。というのも、女性アイドルは様々な経営方針の展開の中で、近年「会いに行けるアイドル」など、その神聖性を自ら棄却することで、むしろそこにビジネスチャンスを見出してきた。

しかし、ことジャニーズに関して言えば、そうした動きは遅いと言わざるをえない。着々とSNSの開設は(YouTubeチャンネル開設を含め)進んでいるが、毎日公演をしている、握手会が頻繁にある、などというところまでは到達していないし、その見込みも無い。

では、ジャニヲタは、ジャニーズに対して、神聖性を棄却するようなことを求めているのかと言えば非常に疑わしい。嵐がTwitterInstagramなどのアカウントを開設したときに、ファンのいくらかが、「これ以上私たちに近づかないで」といった反応を示したことがそれを証している。つまり、ジャニヲタは、ジャニーズの神聖性にこそ、価値を見出しているのである。

ジャニヲタの「推す」という行為の特殊性については、記事を改めて述べるつもりであるが、この神聖性こそが、ジャニーズを「文学」たらしめていると言える。

 

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文学とは何か。

その特質を語ることは可能である。しかし、定義を述べたものは少ないのではないか。そもそもその定義に頭を悩ませる必要は無いように思う。端的に次のように言えばいいのだ。すなわち、「言語芸術」と。

文学の特質に、文学の中に嘘はありえない、ということがある。あるいは、全てが嘘である、ということがある。この正反対の特質が、文学の中にはある。

例えば、「吾輩は猫である。」と夏目漱石吾輩は猫である』が書き起されるとき、「そんなわけない、この文章を書いたのは人間(夏目漱石)に違いないのだ」と指摘することは、意味を持たない。

すなわち、確かにその文章を記したのは夏目漱石であるかもしれないが、その物語の語り手は猫なのである、という壮大な嘘が、文学の中において「真実」として流通する。

あるいは、「信頼できない語り手」という発想がある。それは、語り手の気が狂っていたり、語り手の「嘘」を別の人物によって指摘される(「シャーロック・ホームズ」シリーズのように)ことで、内容が全て嘘であるように捉えられることを示す。

文学において、嘘は真実として流通し、その真実はある一言、あるいは一つの設定によって、全くの嘘へと転化する。

そもそも文学において、どこまでが真実であり、どこからが嘘であるかというような判定は意味を成さない。*2

 

     ◆

 

アイドルも同様である。

アイドルの語る言葉は、常に「真実」として受け止められるしかない。

アイドルが、「今まで誰とも交際したことはない」と言えば、それが嘘だろうと推察しながらも、やはり一応「真実」と受け止めることしかできず、「いやそれは嘘だ、君はx人と交際してきたはずだ」と指摘することはできない。

西条昇・木内英太・植田康孝が、我々一般市民が「現実空間の実像」を生きるのに対して、アイドルが「仮想空間の虚像」を生きると指摘している*3ことは、注目に値する。

この「仮想空間の虚像」を「二次元」と言い換えても全く構わないだろう。すなわち、あらゆる文学作品において、その欠点があるとすれば、それは「二次元」であるということである。

アイドルは、三次元である。もちろんそんなことは分かっている。ジャニヲタの中にも、アニヲタ(アニメオタク)に対して「二次元なのに」と怪訝な顔をする人々も多いだろう。

しかし、二次元の動画(アニメ)に対して愛を傾けるアニヲタと、アイドルに対し愛を注ぐジャニヲタに、一体どれほどの違いがあるというのか。

両者に共通するのは、三次元に至るための奥行=リアリティを欠くという点である。文学もまた、その描写は「何を描くか」ではなく、「何を描かないか」というところにその特徴がある。

アイドルについても同様である。ジャニヲタは、ジャニーズの人間としてのリアリティを捨象し、その二次元的側面のみを愛好している。

 

     ◆

 

再び繰り返そう。アイドルとは文学である。

それは第一に、それがある意味で、全て「嘘」であるという点による。あるいは、その「嘘」を全て「真実」として信じるより他にないという点による。

第二に、そこには「現実空間の実像」=三次元として必要なリアリティが欠けている点による。その神聖性には、アイドルを人間たらしめるものが排除されている。

以上を踏まえ、以後ジャニヲタを研究するために必要になるであろう語句についての私的な解釈を行う。その中には、法的にグレー(あるいはアウト)なもの、アンダーグラウンドに密かに棲息するジャニヲタを暴くようなものもあるだろう。

管見の限り、そのような語句を丸きり飲み込み、解説しえた論考は見当たらない。

しかりこれより以後、ジャニーズファンについてを考えていく上で、こうした事情を踏まえることは必須だと考える。そうした側面を解釈せず、ファンがアイドルを推すという単純な構図に貶めるのは、ジャニーズファンそれ自体を貶めることになりはしないだろうか。

*1:「アイドル・エンタテインメント概説⑴:「デジタル・ディスラプション」が迫るアイドル相転移」「アイドル・エンタテインメント概説⑵:行動経済学から見るアイドル「卒業」「引退」「活動休止」」「アイドル・エンタテインメント概説⑶:アイドルを「推す」「担」行為に見る「ファンダム」」(いずれも『江戸川大学紀要』第29号、2019年3月

*2:もちろん、文学研究において、どこまでが作者自身の経験に即したものか、という研究はあるが、ここではそれ以前の、テクストレベルの話をしている。

*3:西条昇・木内英太・植田康孝「アイドルが生息する「現実空間」と「仮想空間」の二重構造:「キャラクター」と「偶像」の合致と乖離」『江戸川大学紀要』第26号、2016年3月