現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review02:小川洋子「妊娠カレンダー」

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小川洋子の「妊娠カレンダー」には、どこか懐かしさを覚える陰鬱な雰囲気がある。例えるなら、梅雨時のジメジメと、そしてねっとりしたあの空気感のような、あるいは何らかの分泌物のような雰囲気である。

この作品には先行論がある。高根沢紀子「小川洋子「妊娠カレンダー」論」*1である。

この先行論は作品論として、今ひとつ精彩に欠ける感があるものの、見るべき点が2つある。1つ目は、この作品がいわば母子健康手帳として機能しているということ。2つ目は、「わたし」が擬似的な胎児であるということである。また、つわりを、胎児を異物と判断した結果起きる症状と解釈している点にも見るべき点がある(別にそれは高根沢氏の発案ではない)。

この作品を読むと不思議に感じられるのは、その地の文である。まあ、そもそも小説というのがそもそも何なのかという問題は置いておいて、世の中には手紙の形式を借りたり、日記の形式を借りた作品というのも存在するところである。

従って、この作品は日記形式であるから、「日記」と捉えたくなるところではあるが、それにしては「わたし」の情動がやけに冷静なのである。日記と言えば、その日あったことや見聞きしたことを、そのときの自分の感情を交えて赤裸々に書くものではないのか。その観点からすると、これは「日記」と呼ぶにはやけに冷徹で、そうした肉感とでも呼ぶべきものが欠けており、小説的なのである。

「小説」と呼ばれる形式は不思議で、それ自体なんのために書かれたのか分からない。「小説」という形式は、「小説」という形式でしか成立しない。あんなに他人の行動を綿密に描写し、場合によっては他人の情動にまで踏み入って描写する。その「語る」という行為は、極めて特異であると共に普遍的であるという点で特異である。

であるからして、この作品を「小説」の形式で描かれた作品と断じてしまっては、その「日記」形式を借りた(ように見える)良さが死ぬのであるが、そこで先ほど紹介した作品論の「母子健康手帳」という解釈は大変的を得ているように思われる。

先行論をお読みいただければ分かる通り、「母子健康手帳」と出てきたのは、妊婦が妊娠中に病院にかかる回数と、この小説で記述されている日数が一致するという点からなので、「母子健康手帳」という表現にさほどこだわる必要はない。言い方を変えれば、これは「わたし」が姉を診断した記録と読むことができるのである。

そうすると、「日記」にしてはやけに冷徹な雰囲気も頷ける。これは「観察日記」なのである。

そのとき、「わたし」が姉に農薬にまみれている(かもしれない)グレープフルーツをジャムにして食べさせる行為にも一応の解釈が見られようというものである。どうやらこの作品においては、この行為=姉の胎児に害を与えようとグレープフルーツのジャムを食べさせる行為が「悪意」によるものかが議論になるようだが、僕はこれは悪意によるものではないと思う。

「わたし」にとってこれは単純に観察日記なのである。グレープフルーツのジャムを食べさせる行為も、無邪気な子供の生体実験と呼ぶべきであろう。そこに悪意は無い。

 

     ◆

 

そもそも、この小説に主に描かれる3人の姿が、歪ではないだろうか。姉妹2人と、姉の夫が同居する家。姉妹が同居するだけなら、まだ頷けよう。しかしそこに姉の夫という「異物」が混入している。一方、夫婦が同居するだけなら、普通のことである。しかしそこに妻の妹という「異物」が混入している。

そして、その様子を妹から見てみれば、これは家族の膨張である。姉と2人家族であったものが、姉の夫がやってきて3人になる。そこに姉夫婦の子供が増えて4人になろうとしている。

これは「染色体」の分裂のように見えないだろうか。思い出してみれば、「わたし」は姉の腹部に宿る胎児を「染色体」として理解している。それは膨張する家族をも「染色体」として理解していることを意味しないだろうか。

そして面白いのは、姉にとってみても、自分の腹部にいる胎児は現実味を欠いたもののようである。彼女は自分の腹部にいる胎児のことを「妊娠」や「ニ・ン・シ・ン」と呼称しているが、「妊娠」とは実体の伴わない現象のことである。姉にとっても、未だ胎児の姿は実体を伴って理解されない。

姉の「妊娠」は、姉自身の妊娠であると同時に、この奇妙な3人の膨張をも意味する。そのとき、姉はその異物を排除しようとしてか、つわりに苦しむ。そしてその夫も、それに同期してつわりのような症状を訴える。それだけでなく、「わたし」さえも、そのつわり=異物を排除しようとする作用を起こすことになる。それが姉にグレープフルーツのジャムを食べさせるという行為なのではないか。しかしやはりそこに「悪意」はない。

「妊娠カレンダー」とは、「わたし」の姉の妊娠を、あるいは胎児の様子を観察した記録である。しかしその妊娠は、同時に「わたし」のものであった。この作品に「曖昧さ」があるとすれば、その抽象性に発するものであろう。

*1:上武大学経営情報学部紀要』第26号、上武大学経営情報学部、2003年12月