現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」における〈オリジナル〉

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2012年10月から2013年3月にかけて放送されたアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」は、傑作である。私見では、テン年代における優秀なアニメ作品を選べば、間違いなくその中にこの作品は入ってくるだろう。

この作品の傑作たる所以は、この作品自体が、様々な問いを提起し、様々な問いに答えうるだけの含蓄を持っていることにある。

そこで今回は、その含蓄のなかのひとつ、〈オリジナル〉をめぐる問題について分析したい。

 

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この作品の主たるテーマは何かと問われれば、相当多数が「シビュラシステム」と答えるだろう。

人間の生活を監視する、フーコーの言うところの〈生権力〉としての「シビュラシステム」。あるいはそれはパノプティコン的装置としての「シビュラシステム」とも言える。

シビュラシステムは悪であると、多くの人々は直感する。物語自体が、そう認識するように誘導している節もあるかもしれない。しかし、「なぜシビュラシステムは悪なのか」と問われたとき、私たちはそれに対する反論を持たない。

シビュラシステムについて考えることは、実は現代社会を考える上で大切だが、しかしその困難さゆえ、映画版や2期・3期では一種の「エポケー(思考停止)」に陥っている。

だからこそ、今回はシビュラシステムと距離を置いたところから、この作品の可能性について考えようとしている。

 

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現代社会における〈オリジナル〉の問題は複雑である。

例えば、4話と5話において展開された事件では、御堂将剛という男性が、インターネット上の他人のアバターを乗っ取る。他人を殺し、そのアバターを乗っ取るのである。

しかし、そのアバターを慕う人々(フォロワー)は、中身が交替していることに気が付かない。狡噛は次のように語る。

狡噛「本物も偽物も無いからさ。こいつらはネットのアイドル、偶像だ。偶像ってのは、本人の意思だけでは成立しない。葉山も菅原も自分の力だけで地位を築いたわけじゃない。周囲のファンの幻想によって祀り上げられることにより、タリスマンやスプーキーブーギーになることができた。アイドルの本音や正体とそのキャラクターとしての理想像はイコールじゃない。本人よりむしろファンの方が、アイドルに期待されるロールプレイをより上手く実演できたとしても不思議じゃない」

葉山・菅原というのは、御堂に殺された2人。それぞれのアバターのキャラネームが、タリスマンやスプーキーブーギーなのである。

この指摘は、アイドル文化論としても、一定の妥当性を持っている。

アイドルという偶像は、ファンによって祀り上げられることで成立し、それと同時に、ファンによって収奪される。だからこそ、偶像は偶像に過ぎないのであり、人格を持った人間とはなれないのである。

ここで〈オリジナル〉の問題に戻ろう。

〈オリジナル〉の人格がある。その人格は、インターネットにログインし、〈アバター〉という仮面を持つ。そのとき、この2つの繋げ、〈アバター〉に対し〈オリジナル〉をidentifyするのは、ログインIDであり、パスワードである。

特筆されるべきは、この2つを結び付けるのが、ログインIDとパスワードにすぎないという点だろう。つまり、ログインIDとパスワードが他者に知られた段階で、この結びつきは開かれたものになり、固有なものではなくなる。

しかし、あえてこう考えるべきではないだろうか。

アバター〉という存在に対して、単一の〈オリジナル〉など存在しうるのか?

そもそも、そのような事実自体に意味が無い、というのが、インターネット社会での一応の〈事実〉である。

 

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6話から始まる展開される事件は、とある女子高校を舞台に、かつての「標本事件」が再び演じられるというものだった。「標本事件」というのは、人間の遺体に樹脂が流し込まれ、標本とされた後、街中のホログラムの裏側に遺体が隠されていたという事件だった。

何気なく見ていた街中のホログラムの裏側に遺体がある、という事実を人々が知ったときに人々が受けたストレスについては作中で言及されている通りである。

これもまた、〈オリジナル〉をめぐる問題であると言っていい。

ここにおける〈オリジナル〉とは、物理的な物体の配置関係と読み替えてもいいのだが、要するに〈オリジナル〉の世界にはホログラムを見る人と、その前に置かれた遺体が配置されている。しかし、〈視覚的世界〉では、遺体は見えない。

では〈ホログラム〉は偽なのであり、〈オリジナル〉の世界は真であると、誰が言えようか。

例えばこの命題に、川原礫は「ソードアート・オンライン」シリーズで、そこには情報量の大小しかないと答えを出す。

ソードアート・オンライン」シリーズで扱われているのは、VR MMOという仮想現実での話である。しかし、果たして〈仮想現実〉が偽であり、〈オリジナル〉が真であると、一体どうして言えるだろうか。

仮に、その真偽判定に「情報量の大小」(〈仮想現実〉が与える身体感覚は、〈オリジナル〉が与える身体感覚よりも小さい)という一点が用いられるのであれば、「PSYCHO-PASS サイコパス」におけるホログラム程度であれば、少なくとも〈ホログラム〉が与える視覚的情報は、〈オリジナル〉と変わらないだろう。

人々は〈ホログラム〉を見ている。それは、物理的な配置を見れば、〈オリジナル〉=遺体を見ているということになる。しかし本当にそうか? 〈オリジナル〉を見ているのは真で、〈ホログラム〉を見ているのは偽だなどと、なぜ言えるだろう。

 

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この種の問題、つまり〈オリジナル〉をめぐって作中で描かれる問題について、もうこれ以上例を並べることはしない。

この作品の黒幕と言える槙島について考えよう。

彼はあらゆる人々に犯罪の手段と知恵を与えた。

それはまるでインテリの一つの享楽として捉えられるようでいて、そうではない。常にそこには「〈オリジナル〉とは何か」を問いかけるために実験を行っているのである。

それは、槙島自身が、果たして自分は〈オリジナル〉なのかという問いかけの中にいることを示している。

ここでやっと「シビュラシステム」をめぐる議論に戻ってくる。

シビュラシステムとは、その本人以上に本人の本質を見極めるシステムとして存在する。人々が幸せになる道を指し示すシビュラシステムは、その点において、本人以上に本人を理解しているのである。

しかし、槙島はそこに齟齬を見出す。

槙島は免罪体質者である。つまり、シビュラシステムは彼を「無罪」とする。

しかし、槙島が本当はそうでないことは、つまり、槙島の犯罪係数が〈本来〉高いことは、槙島自身が、シビュラシステムよりも知っている。

ここにおいて、槙島の〈オリジナル〉をめぐる疑問が想起せらる。

槙島にとって、槙島自身=〈オリジナル〉とはどこにいるのか。それ以外の人々にとって〈オリジナル〉とは、シビュラシステムの下に存在した。では、それが「誤診」される槙島の〈オリジナル〉とは。

そこでこの作品が選んだ答えは、「最も基本的な人間同士の呼びかけ」だった。

1話にも錯時法的に引用された場面を見てみよう。

槙島「その傷でよくやるもんだ」

常守(きっと彼らは一目見て分かったはずだ。2人は初めて出会う以前から、ああなる運命だったんだろう。すれ違っていてわけでもない。彼らは誰よりも深くお互いを理解し、お互いのことだけを見つめていた)

槙島「お前は狡噛慎也だ」

狡噛「お前は槙島聖護だ」

この場面は、不可解に思えるはずだ。

普通の会話で、「お前は○○だ」と呼びかけることなど、あるわけがない。

しかし、この会話も、〈オリジナル〉についての問いを踏まえた上では、意味を持つだろう。

彼らは(特に槙島は)、〈オリジナル〉をこの物語で問い続けて来た。その答えは、「お前は槙島聖護だ」と同定されることに帰結した。

〈オリジナル〉をめぐる問題は、「誰よりも深くお互いを理解し、お互いのことを見つめ」た末の、呼びかけという解答を得るのだ。