現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

【随想】価値のアナーキー、あるいは高級チョコよりキットカットがおいしいという件について

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大抵の物はピンキリで、高級品もあれば廉価な品もある。もちろんそれは値段に留まらない。例えば哲学者や小説家にしたところで、一流から三流まで、幅広くいる。

僕が唐突にそういうことを思ったのは、ふと聞いていたとある配信で、「高級チョコを食べてもキットカットの方がおいしいと思ってしまう」ということについて話していたのを聞いたからだった。

 

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端的に言えば、これは「貧乏舌」とか呼ばれるべきものである。要するに、日ごろから高級チョコなどめったに食べないので、やっと食べたとしても、それが良い品かどうか分からない。

それを判別できるようになるほど舌が肥えていないのである。

と、それだけであれば特に思うところも無かったのだが。

僕がより気が付いたのは、それに対して、「キットカットの方が高級チョコよりおいしいと思ったとしても、それもまた一つの価値観」という発言が目に付いたからだった。

振り返ればここ最近、「それもまた一つの価値観(だから他人がとやかく言うことではない)」というセリフをよく聞くような気がする。しかしそれは本当なのか。

 

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それと同じ現象が、文学研究の世界でも起きたことがある。日本では1980年代中盤あたりから流行り始めた「テクスト論」である。

ロラン・バルトの「作者の死」のようなロジックを論理的支柱に、「あらゆる読みは間違いではない」「作者の意図だけが唯一の正解ではない」と示した。

その後の状況を、田中実は「読みのアナーキー」と表現している。

田中実というのは、大変評判の悪い日本文学研究者なのだけれど、彼のほとんど宗教じみた「第三項理論」は、この「読みのアナーキー」に対して〝絶対的な何か〟を希求した結果のものだと僕は考えている。

こうした「テクスト論」的状況は、端的にポストモダン的状況を示していると言っていいだろう。「大きな物語」は成立しえない、全てが相対化される時代。

それを象徴するかのようなセリフが、「それもまた一つの価値観」であったり、「価値観は人それぞれ」なのではないだろうか。

こうした状況を、「読みのアナーキー」になぞらえて、「価値のアナーキーと呼びたい。

 

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しかし、実際にはそうした考えは結構マズいのである。

人類は一応、相対的な価値観を押さえつけてでも、絶対的な何かを求めてきたのだし、「それもまた一つの価値観」式の、ほとんど諦念のような「価値のアナーキー」を認めることは、進歩を諦めることを示すのではないか。

進歩! すっかり赤色の手垢が付いたこの言葉だが、これが示すのは端的に「前時代よりもbetterなものを作ろうという意思」程度に抑えておけば良いだろう。

もちろん実際には「価値観」という尺度が変化したに過ぎず、大局観を持って見れば別に大して進歩していないという説はあるのだが、当人たちは確かに「前時代よりもbetterなものを」と考えているはずなのである。

ということで、「価値のアナーキー」は結構マズい。

「それもまた一つの価値観」式の応答は、最も基本的な原則さえ無視しかねない。

例えば、「本を読んでいない奴より読んでいる奴の方が偉い」だとか、「練習していない奴より練習している奴の方が偉い」だとか言う、最も基本的な原則である。

 

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近年、プチ反知性主義とでも言うべき形で表れている現象に「俺哲学」がある。歴史上の哲学を参照せず、ただ自分の思索の結果を「哲学」と呼んだ、心もとない何かである。

学問にとって重要な姿勢を2つ挙げるとすれば、それは「巨人の肩に乗っていることを自覚する」ということと、「車輪の再発明はしない」ということになるだろう。

つまり、自分の以前には同じことを考え続けて来た人類の脈々とした系譜があるのであって、それを無視すべきではない、ということである。

「価値のアナーキー」に取り込まれた私たちは、こうした「俺哲学」を批判できなくなっているのではないか。

なぜなら「歴史上の哲学者が既に言ったことを偉そうに、さも自分が発明したかのように言うのはやめてくれ」と言ったとき、「それもまた一つの価値観。けれど私の考え方もまた一つの価値観」と相対主義に持ち込まれることは、容易に想像がつくからである。

これは結構マズい。

それが身体知であったとしても(つまりスポーツを含むのだが)、「知」とはあればあるだけ「偉い」に決まっている。

もしここでソクラテスの「無知の知」などで反論してくる者がいれば、それはおろかだと言わざるを得ない。ソクラテスが偉大だったのは、「自分が無知である」と気が付くほどには「知」を蓄えたことである。彼がやって見せた問答法は、相当の「知」の裏付けがないとできないのは明白だ。

えてして「無知」とは「知」を獲得すれば獲得するほど、自分が惨めに思えるくらい痛感させられるものなのである。

 

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相対主義の罠を乗り越えようとする懸命の努力は、大体3つの方法で行われる。①宗教的に、②感情的に、③論理的に、のいずれかであるが、真の相対主義者は、そのどれしもを相対化するのであって、どれにも心打たれることは無い。

しかし、そうした相対主義自体が、絶対的な「知」の蓄積にあることを踏まえれば、「価値のアナーキー」に陥る直前でそれを回避できるのではないか。

「価値のアナーキー」とは先人への暴力である。それを踏まえ、なお回避せねばなるまい。