現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

【随想】新自由主義者と2つの討論をして分かったたった1つの真実

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LINEにオープンチャットという機能が追加されて、まだ日が浅い。少なくとも僕がこの記事を書いている頃は、まだぜんぜん世間に浸透していない。だが僕は、あるときふと思い立って、ある哲学カフェを称するオープンチャットに参加した。

当然、多くの人の予想の通り、そこに集うのは、「俺なりの哲学」(以下「俺哲学」)の講義を開陳したい者たちばかりで、様々な哲学者たちが「俺哲学」のもとにけなされている有様だった。

そうなると、闘う哲学者こと中島義道を尊敬する僕は黙っちゃいられない。まあ、〈半隠遁〉を志す氏は、他人の「俺哲学」を批判するなんていう、ドブをさらうような仕事、別にしないのだろうが。

第1の議論

最初にそこで火がついた議論というのが、日本人全員資本家論争であった。

というのも、資本家の資産を労働者に分配する、いわば富の再分配が正しいのか、というのが議題となっていた。そこで出てきたのが、ある人物(以下A氏)の論である。

A氏はこう言う。

現代日本では全員が資本家にあやかれることも可能だし、資本家になることも可能なのだから、それでも貧困層でい続けるのは、自己責任である」

これは僕がA氏の議論を要約したものであり、A氏はある言葉の厳密性に非常にうるさい人であるから(ある種の定義厨とでも言おうか)、これを見たら怒るに違いないが、端的にはこういうことだ。

もちろん、少しでも社会主義的な事柄に、あるいはリベラルなものの見方に賛同する者がいれば、このA氏の論理には疑義を持つに違いない。

というのも、彼のロジックであれば、現代日本では人々は低所得者層ですら持たずに投資が可能であり、投資すればみんな資本家になれる。それをしないのは自己責任だ、と言うのだ。

と、まずここで「いや投資は成功する人もいれば失敗する人もいるのでは」とか、「元手無しでする投資なんか危ないのでは」と批判してみてもいいのだが(実際後者の方は、僕も言った)、それは相手の土俵で相撲を取るようなものなので、癪だ。

とりあえず、僕は「投資にまでたどり着かないような不可視の層がいる」ということを何度も訴えた。しかし彼は「そんな層はどこにいるのか。例示してみよ」というようなことを言い始める始末。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶというが、その真髄を知った気分である。

そもそも、永遠に資本家になれなさそうな層というのは、不可視なのであるから、「ここにいます」などと紹介できるのがおかしいのであって、彼らは社会の暗部とでも言うか、そういうところにいるのだ。(あるいは最下位層が「不可触民」と呼ばれることも、語がよく実を表している。彼らは「触れる」ことすらできない層なのだ)

上野千鶴子が、東大の入学式の祝辞で良いことを言っている。言ってみればその通りというようなことである。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

この祝辞の優れたところは、「何も特別なことは言っていない」という点である。だから読めば、まともな神経を持っている人であれば「そりゃそうだ」と納得する。

しかし世の中にはそうではない人がいたのだ!(僕はそれが何よりの驚きだった)

「すべての人は努力すれば報われる」と、本気で信じている人が!

そして、「目に見えない低層などいない」と、本気で考えている人が!

僕は以後、この論争で、彼の思想を「リバタリアニズム」と読んだり、「新自由主義者」と呼んだりした。この2つは、似て非なる思想であろうが、しかし多くを個人の自己責任に求める点では同じだろう。

自己責任! なんとおぞましい響きだろう。「お前が貧しいのは自己責任だ!」とA氏は語るのだ。

第2の議論

次の議論は、それから数日後に行われた。名付けて、車輪の再発明論争である。

これには前段階がある。そもそも文学とは芸術なのか。文学を読むとき、批評家の意見を参照すべきか。

僕は、最初の問いには、「様々な立場がある」というようなことを答えた。文学研究者のどれぐらいが、文学も「単なる」芸術であると考えるだろうか。絵画や音楽よりも、特権的な「何か」であると考える人は、存外に多い気がする。

そして、次の問いには、「参照すべきだ」と答えた。というのも、批評家は、僕たちよりも、ずっとたくさんの本を読み、作品に触れ、思考した人々である。それを無視する手は無い。

A氏は、そこで「別に参照しなくても良い」と答えた。

「読みは各自の自由であり、批評家にあやかるものではない」という立場である。文学研究を理解しない中途半端な文系が言いそうなことだ。

そこで僕は、「先哲の考えたことを、自分が考えついたところで、それで得意げでいるのは、滑稽だし馬鹿ではないか」と答えた。

しかし彼は、「それは個人の勝手だろう。わざわざ滑稽ですねとか、馬鹿ですねと言う必要はないのではないか」と反論してきた。

そこで、僕はある1つの真実に辿り着いた。

たった1つの真実

僕が辿り着いたたった1つの真実とは何か。

それは、「彼は結局他人のことなどどうでも良いのだ」ということだった。

不可視の、救われない層に思いをいたそうともしない。先哲が考えたことを自分もまた考え(車輪を二度発明して)得意げになっている人間に、どうとも思わない。

結局彼は、凄く社会のことを考えているようでいて、そういうポーズを取りながら、畢竟他人なんかどうなってもいいのだ。

彼が言うことは、こういうことだ。

例えば、誰かが「この服は馬鹿には見えない」と騙されて、裸だったとする。けれどそれは自己責任なのだから、放っておけばいいではないか、と。

しかし、真に社会のことを思い、人々のことを考えるのであれば、そういう者は、その者に近づいていって、「あなた実は裸ですよ」と言うはずなのだ。

これこそが新自由主義者の本質だと分かった。

僕は新自由主義者とは、そういう「社会」を希求する人達だと思っていた。しかし、彼らにとって「社会」など大切なのではなかった。大切なのは、ただ〈私〉なのであり、それ以外がどうなろうと、自己責任と切り捨てられるのだ。

付論

一応、第1の論争について、補足をしておく。一応彼の名誉のために。

彼が言っているのは、「その気になればみんな資本家になれる」ということであった。そして、それは正しいのかもしれない。ただ彼は「(経済的・社会的理由で)その気になれない」人々が目に入っていないだけなのだ。

言ってみれば、例えばDr.Martensの3万円のブーツがあったとする。「靴に3万円!」これは出せない人もいるはずだ。しかし彼のロジックでは「基本的に人間には2本の足があるのだから、そのブーツも履ける」ということになる。いや確かにそうなのだが、木を見て森を見ずの感は否めない。

そして、論争についてだが、これは更に波乱の展開を迎えた。

僕は、貧困の再生産について、トマ・ピケティと、ブルデューの例を出した。特にブルデューの方は、別の人(以下B氏)を迎えて白熱した。

B氏の論では、「勉強できるかできないかというのは俺の経験上〝遺伝〟で、家庭環境は関係ない」というのであった。

流石にこれには僕とA氏も反対の意で見方が一致した。