現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

アーレント『人間の条件』01:〈活動的生活〉と人間の条件

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アーレントは、「人間が地上の生命を得た際の根本的条件」に対応しているとして、〈活動的生活〉を3つに分類する。それが、①労働、②仕事、③活動である。

第一に、労働laborとは「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」と定義される。つまり、人間は排出した分だけ食べ物を食べなくてはならないし、飲み物を飲まなくてはならない。そうした「生みだされ消費される生活の必要物」を得るために行うのが、労働である。そして、その人間的条件は「生命それ自体」とする。

第二の、仕事workとは、「人間存在の非自然性に対応する活動力」と定義される。これは私見ではハイデガーの影響なのだと思うのだが、人間は「存在すること」について考えることが許されている存在で、その点で他の存在(動物など)と異なる。だから、他の存在は、別に「自分はいつか死ぬかもしれない、どうしよう」などと悩んだりしないのだが、人間にはその可能性がある。そうしたなかで、限られた人間の寿命を超越する「「人工的」世界」を作り出すのが、仕事であり、そのための人間的条件は世界性(言い換えれば「世界内存在性」)とされる。

第三の、活動acitonは、「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」とされている。人間は、そもそもその存在の中に複数性を持っている。アーレントが挙げている例以外の例を持ち出すなら、日本語においても「人間」という字が和辻哲郎の言うところの「間柄的存在」としての性質を示唆していることが挙げられるだろう。どうしてそうした事実が活動へと繋がるかというと、次の理由による。

多数性が人間活動の条件であるというのは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではないからである。

この多数性は、「複数性」とでも呼び変えた方が、その本質を表しているように思われる。

このように、労働は「生命それ自体」、仕事は「世界性」、活動は「多数性」(複数性)という条件を得て、ある。そして、アーレントは、それが生と死、出生と可死性と結びつくと指摘する。

労働は種の生命を保障し、仕事とその結果の工作物は人間的時間に永続性と耐久性を与え、活動はそれが維持される限り、歴史の条件を作り出すという。

アーレントは、従来の形而上学的思考が、「メメント・モリ」の中で、つまり可死性のなかで展開されてきたことを踏まえ、むしろ政治的思考は出生から起こるとしている。というのも、その時に感じられる「新しい始まり」というのは、その生まれた子が、活動する能力を持っているために感じられるのである。

というのも、例えば子供が生まれたときに、「この子はこれからどんな経験をするのかしら」と期待に胸膨らませ、やってくる新たな生活に胸をときめかせるのは、その子が「新しい事柄を始める能力」=「活動する能力」を持っているためであるのだ。

 

     ◆

 

次にアーレントが展開する議論もまた、ハイデガーの「世界内存在」をめぐる議論を引き継いでいるだろう。

「人間が条件づけられた存在であるという場合、それは、人間が接触するすべてのものがただちに人間存在の条件に変わる」と指摘するが、この「条件づけられた存在」とは、「世界内存在」と言い換えて構わないだろうと思う。

人間は、世界の「存在するもの」が「存在すること」について思いをいたすが、それは、「存在するもの」が「存在すること」自体が、人間の条件とも言い換えられるからである。

「人間存在は条件づけられた存在であるがゆえに、それは物なしでは不可能であり、他方、もし物が人間存在を条件づけるものでないとしたら、物は関係のないがらくたの山、非世界であろう」と言うのも、その延長線上にある。

この世の全てのものが、その存在を感知されるのみならず、「存在すること」をしているのだと考えられなければ、それは人間が「世界内存在」ではなく動物と変わらないという以上に、「世界」そのものが存在しない=「非世界」であることを意味しているだろう。

ここで、「条件づけられた存在」を「世界内存在」と呼んだことと、アーレントが3つの〈活動的生活〉それぞれの条件と、生と死が関連するということは無関係ではないだろう。前者がより包括的であり、後者がそれを細分したものだということだと思う。

そして、アーレントは更に、そうした人間の条件がイコール人間の本性ではない、すなわち、人間にとって人間の条件とは含んでもいい条件であるが十分条件ではないことを示す。

アーレントはそこから人間の本性について横道に逸れる。そこからアウグスチヌスの「自分にとって自分自身という謎」に言及し、それが「自分の影を飛び越えようとするのに似ている」、つまり不可能であると指摘する。

それに答えられるのは「神だけ」と言う。というのも、人間が問うことができるのは、Who am I?(私は誰か?)という事柄だけであり、その答えは「人間」である。それでは本性と問うたことにはならない。本性を問うとは、What am I?(私は何か)と問うことであるが、それに答えられるのは、造物主たる神のような「一個の観念」だという。

そこで、再び人間の条件に話を戻す。先に挙げた「生と死」「出生と可死性」のような人間の生存に関わる諸条件のうちのひとつである「地球」について考える。我々は「地球」というパラダイム(条件)の中にあると言っていい。しかし、アーレントがプロローグで言及したように、人類が宇宙に進出し続ける限り、いつかはその「地球」というパラダイムが転換される。

しかしそのとき、人間が人間でなくなるわけではない。すなわち、人間の条件とは、必要条件ではないのである。