現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

仮面ライダー原論

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仮面ライダーとはいかなるヒーローか。

このような問いかけは、幾度となく繰り返され、その度に幾度となく答えが出され、幾人もを納得させてきた。

そうした解釈のほとんどが、おそらく正しい。

そうした解釈の、ほんの一部に目を通しただけであるが、この先のために、一応「仮面ライダーとは何か」という問いに対して、答えを示しておきたいと思う。

 

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「答え」と言ったものの、それはほとんど白倉伸一郎氏が示した考えを紹介し、幾分かの解説を加えるだけで、その役目は終わりになるに違いない。

白倉伸一郎氏は、國分功一郎氏との対談で、次のような条件を示している。

第一に、同族殺し、第二に、親殺し、第三に、自己否定である。

順に解説するが、初代「仮面ライダー」を例に挙げるのが感嘆なので、その例を用いる。

まず、仮面ライダーとは、ショッカーによって改造人間にされたのであるから、仮面ライダーがショッカーを倒すというのは、「同族を殺す」ということを意味する。

次に、仮面ライダーを生み出したのはショッカーであるから、ショッカーを倒すということは、「自分の生みの親を殺す」ということをになる。

そして、仮面ライダーがショッカー殲滅を条件に掲げると、自らもショッカーの遺伝子を受け継ぐものとして、自分自身を滅ぼす必要がある。

ここにあるのは、深刻なアイデンティティをめぐる問題である。

 

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さらに白倉氏は次のように述べる。

アメコミヒーローものをみているとやっぱりjustice的な天秤にかけるようなシチュエーション、たとえばヒロインを助けるのか、それとも何十人というバスの乗客を助けるのか、ふたつにひとつを選ぶような場面が多発するんですが、彼らにはおそらくそういう二律背反的な状況に決然と断を下すのがヒーローだという考え方がある。それが本にも書いたjustice、ジャッジするということですね。それに対して日本のヒーローは二律背反の状況に置かれたら「選べない!」とい叫ぶほうがヒロイックに見える。

ここである命題を提起しよう。

政治とは、二者択一を選ぶ作用であり、文学とは、二者択一を棄却する作用である。

つまり、アメコミヒーローはjustice的な天秤でどちらかを選ぶ政治的存在であり、日本のヒーローはそこで「選べない!」(「どちらも!」)と叫ぶ文学的存在であると言えるだろう。

 

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仮面ライダーが「文学的」というのは、その存在に既に深く刻み込まれている。

先ほど述べた仮面ライダーの3つの条件というのも、それに基礎を置いている。

すなわち、仮面ライダーとは、内部の存在(=市民)と、外部の存在(=敵)の間で、どちらともつかずに戦いつづける、境界上の存在なのであり、その存在自体が、内部対外部という二者択一を棄却した上の存在なのである。

だからこそ、仮面ライダーは戦う。

仮面ライダーにとっての「正義」を問い直すことは、実はそれほど有意義ではない。というのも、そこには特に「正義」をめぐる深い含蓄など無いからである。

仮面ライダーが戦うのは「正義」のためであって、「正義」のためではない。

彼らは「悪」と同根でありながら、「悪」に相対することによって、自らが「悪」=敵ではないと示す。その極めて利己的な理由で戦う。そのとき、「悪ではない」という否定神学的に定義された仮面ライダーは、あたかも自分が「正義」の味方であるように装う。

だからこそ、仮面ライダーにとって問い直されるべきなのは、「正義」をめぐる問題ではなく、「悪」をめぐる問題だろう。

参考文献

白倉伸一郎國分功一郎存在論的なヒーローのために:平成仮面ライダーの正義と倫理」『ユリイカ』第44巻第10号(通615号)、青土社