アメリカ民謡研究会Haniwa序論:「理論を知らぬ愚者の、ただ1つの旋律。」を聴く
ここまで来れば分かるでしょう。この楽曲は、音楽の一回性に挑戦して、「再現性ある音楽」の可能性をこそ実験しているということに。
アメリカ民謡研究会Haniwa序論:「二台のドラム、一本のベース、合成音声よりあなたへ。」を聴く - 現代文化論叢
私はすでに、一回性という、音楽において称揚される価値観を転倒させ、その再現性を示しているという点について語りました。
「理論がこれぽちも解らなくたって、弾けば音は鳴る。」という文字列から始まるこれが、あるベースの音が反復が通奏低音を響かせていることは、その証左と言えるでしょう。
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ここにおいて、音楽の既存の価値観を転倒させているとすれば、それは理論を転倒させているというところに集約されます。
ここで、理論をオーソリティと読み替えてもいい。
「見窄らしい花を飾る。/判らない色をしているそれは、/枯れているように見えた。/人は、/気不味そうに目を逸らして、/そっと去っていくだろう。/愚か者は、/その名を伝える言葉を持たず、/ひたすらに振りかざす花束が、/すぐ、/ばらばらに散ってしまって、/寂しそうに俯いたとしても。/(私達は振り向きもせず、ただ、目を瞑っている。)」
この箇所は、詩的に聞こえるかもしれませんが、実際には言いたいことは明確です。
ここにおける「花」とは、「音楽」の寓意だと考えて良いでしょう。「判らない色をしている」のは、色を判別するようなオーソリティ=理論の存在を否定しているから。
だからこそ、その作曲者=「愚か者」は、「その名を伝える言葉を持た」ない。一般に流通するような「名」、それはオーソリティによる「名」なわけですが、それを持たない。
それでいながら、「花束」を「振りかざす」。これは「曲を作る」という寓意と考えて問題ないだろうと思います。だけど、それは「ばらばらに散ってしま」う。なぜか。その「花束」=「音楽」を同定し、取りまとめるリボン=「名」がそこには存在しないからです。
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少し話が複雑になりましたから、整理しましょう。
寓意を排して、わかりやすくこの歌詞を解釈してみたいと思います。
まず、この楽曲の作者(作曲者かつ作詞者)は、理論を知らない。それは、理論によって形成され、理論を形成するオーソリティ(権威)と距離を取っていることを意味します。
そのことによって、どういう問題が起きるかと言えば、「音楽がばらばらに散ってしまう」ということになります。それは、楽曲を貫く信念=理論が無いためです。
ここまで見たところで、この楽曲を2つの方法で聴くことが可能であると分かります。
第一に、「これは作者の開き直りである」と聴くパターン。自分は理論を知らないのだが、実際今このように音楽を奏でているのだ、という開き直りです。
第二に、「これは作者の哀しさを表している」と聴くパターン。
個人的には、後者を採用したいと思います。それは曲調もそうなのですが、花束がばらばらに散ってしまうとか、そういうところに独特の哀愁を感じるからです。
ということで、ここから感じ取れるのは、自分が理論を知らないということに対する、ある種の哀しさでありながら、重要なのは実際、理論を知らずに音楽を形づくっているという点です。
そこが不思議なところで、その哀しさと、理論を知らないという現実が、開き直りにまで至らない形で共存している。そこがこの楽曲の魅力なのだろうと思います。