現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

ドラマ「同期のサクラ」はなぜかくも感動的なのか

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遊川和彦の作品は嫌いだ。理論的に、僕はそのように結論を出す必要がある。

僕は、「家族」という存在を過剰に重視するような現代社会に対して危機感を抱いているし、「家族」というものをそれほど重視していない。

しかし、遊川和彦は「家政婦のミタ」や「過保護のカホコ」に代表されるように、「やっぱり家族って素敵」みたいな結論を出すことが多く、僕はそれを頭では認めることができないのだ。

とは言いつつ、感情的には、遊川和彦の作品に感動せざるをえないところがある。

 

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遊川和彦の作品の全てを見たわけではないが、特に近年の遊川和彦の作品は、その作品に対する批評を拒絶するところがある。

基本的には、特殊な人格を持ったトリックスター的なキャラクターが中心となって、周囲の人々を感化していくという物語。「あまちゃん」以後の、成長しないヒロインの系譜を継ぐものだと言えるだろう。

しかし、面倒くさいのは、そうしたトリックスターについて、周囲の人物からの批評が、作中においてなされるということだ。

例えば「同期のサクラ」で言えば、そのトリックスター的な役割を担うのは主人公・北野桜で、彼女が周りの人々に様々な影響を与えるわけだが、とは言いつつ、作中では周囲の人物が「桜ってさ」とヒロインについて語る。

これが、「同期のサクラ」について「同期のサクラ」中で解説・批評されるという構造を持っていて、批評を阻止する要因となっている。

すなわち、Twitterやブログで「桜のこういうキャラクターが○○な影響を人々に与えて云々」といった批評は、全て作中に先取りされてしまっている。

しかし、この構造こそが物語を面白くしている。その点で、この「同期のサクラ」は従来の遊川和彦作品を超えたと言えるだろう。

 

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「同期のサクラ」は、第1話が同期入社の4人とのエピソード、第2話が菊夫、第3話が百合、第4話が蓮太郎、第5話が葵、第6話が人事部の先輩・すみれを感化していくという仕組みになっている。おそらく、従来の遊川和彦作品なら、ここまでで終わっていただろう。

そこから第7話以降、ここからは桜が周囲の人々を感化させるのではなく、桜自身の物語へとフォーカスする。

小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというものはない。」というのは悪文としてあまりにも有名だが、桜にもそれに似たところがある。

桜には、周りの人々を感化させるだけの「何か」があった。しかし桜自身には何も無かった。

だからこそ、桜が、「自分は何も成しとげていない」という風に悟る場面は、残念ながらその通りなのだ。

桜は、周囲の人に「何か」を成し遂げさせるだけの力を持っていた。しかし、それは桜自身が持っている属性でもなければ、桜自身が何かを成し遂げたわけではない。

そこで、同期の仲間たちは、「周囲の人々を感化させる」ということこそが、桜が成し遂げた「何か」なのだと言いかえる。

 

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作中で何度も繰り返される「私には夢があります。」というワード。キング牧師を髣髴とさせるその言葉は、途方も無い何かを、実現可能な何かに装うだけの力を持つ。

何より感嘆せざるをえないのは、そして、この作品が思い出させてくれるのは、現代社会において「私には夢があります。」と発言することさえ困難にさせていることであり、「私には夢があります。」と語る勇気についてである。

マルクスは、歴史は、一度目は悲劇として、二度目は笑劇として再演されるということを書いた。実際、それと同じように、俗に「天丼」と呼ばれるテクニックのように、同じワーディングを繰り返すことで、それを「笑い」へと転化させる。

しかし、三度、四度繰り返されればどうか。

「私には夢があります。」一度目、それはどことなく悲しい響きを持つかもしれない。

「私には夢があります。」二度目、それは馬鹿にされ笑われるかもしれない。

三度目、四度目。繰り返されると、そこにはむしろ真実味が生まれてくる。

この物語が、かくも感動的な肝とは、第一はそこにある。そのように繰り返す強さに、涙を誘われるのだろう。

 

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第二は、先ほどに述べた通り、後半にある。

桜には何も無いのか。そうではなく「何か」があるのか。

あるいは現代人にうつ病が多いとしたら、そういう精神疾患の原因は、「自分には何もない」というところにあるのではないか。

それはマルクス流に無産市民ということを意味するのかもしれない。

「自分には何もない」。しかし、「君には○○がある」と指摘することは、できるかもしれない。そして、それを繰り返すことが、かえって自分には何かがあると示すことになる。

遊川和彦はこの作品で新境地を切り開いた。それは、周囲を感化するトリックスターを描くことに加えて、そのトリックスターをメタ的に捉え、批評的な視線を向けたことにあるだろう。