現代文化論叢

現代文化への「解釈」を探究する

review06:津村記久子「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」

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国木田独歩に「忘れえぬ人々」という短編がある。宿屋で会ったある人が、世の中には一度会っただけなのにどうしてか忘れられない人がいるという話である。

国木田独歩の特筆すべき点は、作中に二項対立を自ら提起しながら、それを自分で破壊して──好意的に言えば、「アウフヘーベン」して──その対立を乗り越えてしまうところにある。そして、その国木田独歩の「アウフヘーベン」を、読者はどことなく経験的に納得できるというのが、素晴らしい。

この「うどん屋ジェンダー、またはコルネさん」を見て、僕はそれを思い出した。1月に1度行くうどん屋で会う客──「私」はその女性をコルネさんと呼んでいるが、彼女のことを忘れずに覚えている。

その日もうどん屋に行った「私」の、1席空けた席にコルネさんはやってきて、「初めてです」と店主に伝える。こってりとした店主はコルネさんに、親切にうどんの食べ方を指南して見せる。

「私」はそのとき、この店主が女性客にしか話しかけていないことに気がつく。「うどん屋ジェンダー」である。女性だから親切に食べ方を指南している。全く問題は無さそうだ。例えば、映画館のレディースデーのような。

しかしその日、コルネさんは店主に怒りを露わにする。別に「あんた性差別主義者ね!」と怒鳴って見せるのではない。彼女は職場に近いから立ち寄ったうどん屋で、何度目の来店か尋ねるくせに一向に自分の顔を覚えてくれない上に、口うるさく食べ方を指南されることにうんざりしたのだった。

うどんを食べずに、怒ったまま店を飛び出したコルネさんに、「私」は夜食に食べようと買って帰った生うどんを譲る。

しかし2つのことに思いを致さずにはいられない。

1つ目。コルネさんは「私」のことを覚えていなかったではないか。もちろん、「私」の記憶力が尋常ではないとか、コルネさんがうどん屋に来るのはとても疲れた日だから周りの人に注意を及ぼすほどの余力が残っていなかったとか、そういうことも考えられる。しかしそれは、人気店でたくさんの客が訪れるうどん屋の店主と、さして変わらないのではないか。

もちろん、彼女がうどん屋の店主に怒ったのは、「わざわざ何度目の来店か訊くくせに」顔を覚えてくれないという部分なので、別に来店の回数を確認し合っているわけでもない客の顔を覚えている筋合いなどないとも言える。

2つ目。果たして「私」は、この後このうどん屋に行くだろうかということである。少なくとも「私」は、うどん屋ジェンダー観が歪んでいることに気付いたはずである。

性差別主義を糾弾し、すべてのジェンダーの人々に優しくあろうとするなら、こういう店には二度と行くべきではないのかもしれない。しかし、「私」は来月もこのうどん屋に来るのではないか。

日常生活において、私たちは時に差別の香りを感じながらも、それはそれとして付き合いを続けることがままある。そういう日常を、文字にしてみせたこの作品は、何かを「糾弾」しているのかもしれない。

review05:津村記久子「給水塔と亀」

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村上春樹は、むずかしい』という本があるが、僕からすれば、よほど津村記久子の方が難しい。

津村記久子の小説には、いつも救いの光明が見えるような雰囲気がある。しかし、それが本当に「救い」と呼んで良い種のものなのか、怪しいものである。

この「給水塔と亀」も、「私」をめぐる一人称の短編であり、最後に明るい明日への期待が見られるようでいて、そうと断ずるのが躊躇われるところがある。

というのもこの小説を読んで気がつくのは、いつも「私」が何かを模倣しているということである。誰かを真似する。それは悪いことではないのかもしれない。しかしそこに明るい明日など期待できるのだろうか。

その感覚が、この小説を「明るい」と断ずることのできない理由である。

浦沢直樹『20世紀少年』と映画『シン・ゴジラ』:戦後とは何か

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浦沢直樹20世紀少年』を読んだ。足掛け3か月ほどだったろうか。僕の中で漫画に費やす金額が大きくないので、古本で、毎月数冊ずつ集めたのである。

そして先ほど『21世紀少年』の上下巻を読んで、僕は初めてこの物語に触れることができた。お恥ずかしながら、僕はここに至るまで、『20世紀少年』の真髄にこれっぽっちも触れられていなかったのである。

それは、『20世紀少年』という作品が、日本の戦争経験というモチーフを、うまく改変して描いているということである。

これに気がついたのは、ともだちの一件がケンジの活躍によって一応解決を見た後、国連軍が日本にやってきたという場面だった。日本に治安を維持するために外国の軍隊が入るという構図に、一瞬GHQの進駐を重ねて見た。その考え方が間違いではないと分かったのは、国連軍の本部が置かれた建物が、GHQの総司令部が置かれた第一生命館だったということに気づいてからだった。

前に『20世紀少年』を読んだのは中学生のころだった。そのときもGHQの建物が第一生命館に入ったという事実は知っていたはずなのだが、そこが国連軍が入った建物と同じであるということに気付かなかったのだ。

これは単純に、「日本において外国の軍が入ってくる」という象徴的な場が第一生命館であるということ以上の意味を持つ。こう考えると、全てが詳らかに繋がるように思われてきたのである。

 

     ◆

 

ともだちは宗教からスタートして、世界を征服するに至った。これもまた、戦前日本の姿と重なるのである。戦前日本の姿は、戦争に勝つはずだというある種の宗教に支配された空気感ではなかったか。それをより鮮明に再現したのが、ともだち教の姿だったのではないか。

そこにある構造は、戦前日本の突入した姿と何ら変わらない。そして、ともだちがともだちたるきっかけ、すなわちケンジたちから友達だと認められなかった姿は、多くの植民地を持つヨーロッパに対して、植民地を持とうとした=満州を手に入れた日本が仲間入りを認められなかったことと重なる。

きっかけは、ケンジが宇宙特捜隊バッジを万引きしたことだった。それは文明国の名のもとに、未開の地を文明化するのだなどとパターナリスティックな仮面を借りたコロニアリズムと重なり合わないではない。そして、その歪みは日本において戦争という形で皺寄せを食ったのである。

ケンジはそうした欧米先進国のコロニアリズムを背負った人間でありながら、ともだちの世界征服に立ち向かう。しかしそれは武器によってではない、ロックによってである。そう考えたとき、ロックという音楽が戦後においてラブ・アンド・ピースを主張してきた姿とも重なるのである。

従ってこの作品は、あたかも近未来の出来事が描かれているようでありながら(それは設定上は間違いないのだが)、実際には太平洋戦争に突入した日本に、もしラブ・アンド・ピースを歌うロックが存在したのならというヒストリーイフのようにも受け取ることができるのである。

そこで重要なのは、この作品の持つ時間の感覚である。

この作品は、ケンジたちが少年だった70年代の出来事と、世紀末前後の出来事を描いている。僕たちはこう聞いたとき、あくまで前者の後に後者が置かれるのだという固定観念に縛られてしまう。それはあくまで時系列的には間違いではないのだが、しかし浦沢直樹は明らかにこの2つの時間をパラレルに描こうとしていることに気づくだろう。

それは、バーチャルアトラクションという未来的な装置を導入してまでも、現代の彼らが70年代を反芻するという設定にも見られる。それだけではない。『21世紀少年』に至って全体を支配するスピリチュアルな雰囲気は、この2つの時間を、時間軸上に配置するのではなく、あくまでパラレルなものとして理解することを迫っている。

一方の時間ではともだちが世界を征服しようとしている。世界を「友達」という関係のもとに結び直そうとしている姿は、大東亜共栄圏の美名を謳った大日本帝国の姿を透かしてみることができるだろう。そして、ケンジはロック・ン・ロールでそれに立ち向かう。

もう一方の時間では、ケンジの手によって「よげんの書」が著され、ともだちによって「しん・よげんの書」が著される。この2つは、時間軸上の未来に実現することになる。しかし、この観点から見れば、これは「実現している」のではない。単にパラレルに配置される別の世界線の出来事を記述しているだけだとも捉えられるのである。

 

     ◆

 

そして作品の最後を飾るのは「反陽子爆弾」をめぐるエピソードであった。

ともだちの陰謀が阻止された、その最後に至っても「反陽子爆弾」という「望まぬ遺産」が取り残されることになる。

そこで思い出されるのが映画『シン・ゴジラ』であった。

僕はすっかり『シン・ゴジラ』という映画が、震災をモチーフに、それを変成させることで物語を作り上げた作品だとばかり思っていた。いや、それもあながち間違いではない。しかしこれは何より戦争文学の系譜に位置づけられるべきものだったのではないか。

もちろん、震災と戦争は重なり合うところも大きい。震災後に作り上げられた秀れた映像作品を挙げるならば、その3作品はいずれも2016年に発表された映画である。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』である。ここに至って、戦争の日常を描いた『この世界の片隅に』が大きな反響を呼んだのは、戦争期の抑圧された日常と、徐々に迫りきて、いつのまにか日常と化している戦争という非日常の様子が、日常の中に貫入して、いつのまにか日常と化す非日常である震災を彷彿とさせ、国民が飲み込みやすかったからだろう。

シン・ゴジラ』において専ら考察の対象となるのは、最後に取り残された停止したゴジラの体である。血液凝固剤によって一応停止したゴジラの遺体は、「望まぬ遺産」として、一応停止された核投下とともに残り続ける。

『LOCUST』という雑誌の1号において、北出栞氏は『シン・ゴジラ』のコピーである「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」の「ニッポン」というのが、即ち「会議」であると指摘した。*1

これは的を得ていると思うが、僕はそれを読んだときに、映画『日本のいちばん長い日』を思い出すべきだったのだ。日本の戦争を終わらせたのもまた、「会議」であったのだから。

 

     ◆

 

ここまで来ればお分かりいただけるだろう。『20世紀少年』と『シン・ゴジラ』には明らかに共通している点がある。それは戦争をモチーフにしたともだちの世界征服やゴジラの襲来が、「望まぬ遺産」を取り残す形で終焉を迎えたということである。

果たして、この2作品における「望まぬ遺産」とは、何の寓意であろうか。

それを詳らかにすることはしないが(各個人の解釈で構わない)、ここで大切なのは、『20世紀少年』の「望まぬ遺産」が秘密基地の下に隠されたものであったということだ。

秘密基地とは何か。それはパブリックには戦争に賛成していながら、プライベートでは戦争に反対しているという面従腹背の姿勢の、そのプライベートな空間のことではないか。

20世紀少年』が最後に示した境地がプライベートな空間が(字義通り)抑圧されることによって、世界は〈終わり〉を迎えるのだという感覚だったことは興味深い。

宮台真司氏はかつてオウム真理教的な終末論と、女子高生たちの選び取った「終わりのない日常を生きる」という戦略を比較し、後者を称揚した。しかし震災を経た私たちは、「終わりのない日常」を生きながらも、どこか〈終わり〉を予感している。

その〈終わり〉の予感こそが片や反陽子爆弾、片や停止したゴジラと留保された核投下という形で、いつかプライベートな空間を爆発四散させる「望まぬ遺産」として日常に溶け込んでいる。本当に僕たちが目を向けるべきなのは、そのまったりとした〈終わり〉の予感なのではないだろうか。

*1:このキャッチコピーを改めて見ると、この映画がゴジラという虚構が日常=現実の中に溶け込むまでの戦いを描いた作品だと気づかされる。現実と虚構という対立が、虚構が現実になるという形でズラされるのである。

review04:小川洋子「夕暮れの給食室と雨のプール」

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文学とは、その作品全てを通して、何かを定義しようとするものだという話を聞いたことがある。今となっては、それが誰から聞いた話なのか、あるいはどこかで読んだ話なのか、それすら思い出せない。

それが正しいとするならば、この短編は、その全てを通して「夕暮れの給食室と雨のプール」というタイトルにある感覚を定義しようとするものなのかもしれない。

「わたし」がある町に引っ越してくるところから始まるこの話だが、目を引かれるのは、そこにやってくる宗教観誘員らしい親子連れである。そもそも僕は、宗教勧誘員と言えば女性2人組と信じて疑ってこなかったので、寡聞にして親子連れの宗教勧誘員のことは知らなかった。

その父親の中では「夕暮れの給食室」と「雨のプール」という関係無さそうな2つのモチーフが分かちがたく結びついているらしいのである。そして、その感覚というのは、何か換言できるものではない。だからこそ、そこにこの小説の画期がある。

彼の中には、自分は当たり前のことができないという劣等感のようなものがあり、それを象徴するのが「夕暮れの給食室」と「雨のプール」だったのだろう。彼が描写するように、給食室というのは、全てが均整をまとって調理される場所であり、それも並みの食堂では考えられないほど大量に、それでありながら料理ごとに個性を生み出さず生産するシステマティックな工場である。

「雨のプール」。プールの授業で泳ぐことができず、その劣等感に苛まれていた彼からすれば、一斉に、均等に給食を調理する給食室が厭らしく感じられたのであろう。それが臭気となって彼を襲い、彼を学校から遠ざける。

そこで彼を救った祖父のとっておきの場所、既に廃れてしまったチョコレート工場は、そうしたシステマティックな「工場」の終焉を見せることとなったと言えるだろう。というのも彼は、学校にせよ給食室にせよ、均等に何かを生産しようとする「工場」というものに嫌気が差していた。そこに廃れた工場の存在が、そんな「工場」の終焉を想起させたのであろう。そうして彼は、その劣等感から脱出したのである。

小川洋子は「終焉」を想起することで、既存の枠組みから脱出しようとすること、いや、より残酷に言えば、何事も終焉を迎えるのだという絶望を描きたいと思っているのかもしれない。文春文庫の『妊娠カレンダー』に収録される「ドミトリイ」もまた、いつまでも続くと思っていた学生寮の終焉を想起させて物語が終わる。

modernculturecritiques.hatenablog.comそう考えてみれば、その彼が宗教勧誘員であるというのも頷けよう。彼がどのような宗教を信じているのか作中では明らかにされないが、宗教というのは畢竟、終焉の想像力を指し示すのではないか。

学校や給食室という「工場」を、まさしく外から眺めることとなったメタ的な立ち位置を取る彼が、宗教勧誘員であるという事実は、まさしくお似合いなように思われる。

review03:小川洋子「ドミトリイ」

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僕はこの小説を文春文庫の『妊娠カレンダー』に所収されている形で読んだ。表題作の「妊娠カレンダー」を読んだのは昨日のことである。そちらのレビューもある。

modernculturecritiques.hatenablog.com

失敗だったと思ったのは、全部を通読してから前のレビューを書けばよかったということである。と言いつつ、まだ「夕暮れの給食室と雨のプール」を残したまま、この記事を書いている。

「妊娠カレンダー」と「ドミトリイ」が決定的に違うのは、着目される感覚ではないかと思う。もちろん小説というのは、主に視覚的な表現に頼る。しかし、それに専心するのは素人の小説であって、優れた小説には、別の感覚が巧みに織り交ぜられるものである。そう考えたとき、「妊娠カレンダー」は全体的に嗅覚の占める割合が大きかったのに対して、こちらは冒頭、聴覚的な表現から始まる。

一方、共通している点もある。私見では2つ。

1つ目は、どちらも身体的に問題を抱えている人物を描いていることである。「妊娠カレンダー」においては、「わたし」の姉が妊婦であり、「ドミトリイ」においては「わたし」と関わりを持とうとする学生寮(ドミトリイ)の経営者であり管理人であり、かつ「先生」と呼ばれるその人物には、右足しかない。

僕は小川洋子の作品に通じているわけではない。というか、この2作を除いて読んだことがあるのは『博士の愛した数式』だけであるが、ここにも共通点が見出せよう。

2つ目は、両方ともに、時間を経ても変わらずにそこにある建築物を描いているということである。「妊娠カレンダー」においてそれはM病院であり、「ドミトリイ」においてはまさしくその学生寮のことである。

そして、これはすっかり昨日のレビューの段階で見落としていたのだが──と言うか、勘づいてはいたが書くのが躊躇われる程度の思い付きだったのだが──その建物が、別の何かと重ね合わせられる。

「妊娠カレンダー」においては、「わたし」と姉、そして姉の夫という3人の、いびつな「家庭」がM病院と重ね合わせられる。そこに貫入しようとする姉の子という「異物」が、その3人に「つわり」を引き起こしていることは、昨日論じた次第である。

一方、「ドミトリイ」において、「わたし」は自身をその学生寮に重ね合わせようとしている。冒頭に記述される何とも表現できない「曖昧さ」を孕んだ音というのが、まさにそのことを示している。スウェーデンにいる「わたし」の夫から準備の催促を受けながらも、特に何も準備せず、必要か、何に使うのかさえも判然としないパッチワークに精力を注ぐしかない、言わば「現状を継続したい」という「わたし」の願望が、学生寮には重ね合わせられている。

ここで、宮台真司が提起した、戦後思想史上最も重要となるであろうキータームの1つである「終わりのない日常」のような概念を導入して分析することも、不可能ではあるまい。「わたし」はその「終わりのない日常」という安寧の中に身を委ねようとしており、その願望が学生時代の学生寮を思い起こさせ、不思議な音さえ生み出すのである。

しかし、先生の様子は、その「終わりのない日常」それ自体を否定しようとするものである。先生は、学生寮の様子に「変性」を確かに感じ取る。

そのとき、学生寮という1つの建築物は、この先生の身体とも重ね合わせられる。学生寮が、ある事件以来変性を余儀なくされているように、先生の身体も、右足しかないという不具によって変性を余儀なくされている。先生はその先に自分の死の予感を感じ取っているが、先生の死が意味するところは、学生寮の「終わり」である。

 

     ◆

 

先生が鋭敏な感覚を向ける対象は、学生寮の変性だけではない。先生は学生の身体について──先生の言い方を借りれば「器官としての身体」について極めて優れた感覚を持つ。

この点で思い出されるのが、清岡卓行の「手の変幻」あるいは「ミロのヴィーナス」と題される評論である。これは教科書にも広く掲載されているので、今や最も多くの日本人が読む評論の1つとなっているのであるが、ここでは両腕を欠損したからこそ想像力を喚起するミロのヴィーナスの魅力が語られる。

事実、「ドミトリイ」においても、「わたし」はもし先生に両腕があったらなどと空想してみるのだが、この作品の画期は、その視点を展開して見せたことである。すなわち、欠損した身体が健常者に想像力を喚起するのではなく、欠損した身体を持つ人が健常者の身体について鋭敏な感覚を示すという逆転である。

「無い」という形容詞は非常に不思議な語である。そもそも「ある」というのが動詞なのに「無い」というのが形容詞であるという非対称が示唆的であるが、「無い」ということは、常に「ある」ということを前提として、それを否定する形でしか存立しえない概念なのである。

そのとき、先生は「無い」という現状から、「ある」という他者に鋭敏な感覚を向ける。だからこそ、その他者が「無い」ようになってしまうことには、甚だ哀しみを覚えるのだろう。

というのも、この作品はある地点から、急にミステリー小説の様相を呈してくる。行方不明になったというかつての寮生についてである。*1

この数学科の学生が「無い」こと、その「不在」こそが、この学生寮に並々ならぬ変性をもたらしている。そして「わたし」がこの事件に強い関心を抱くのも、この「不在」が解決されさえすれば、学生寮の変性が止められると考えているからではないか。

だからこそ、最後に「わたし」が滴り落ちる蜂蜜を見て、血液だと早合点する。「わたし」は、屋根裏にこの学生の死体があって、その死体から血液が滴り落ちているのだとすれば、この学生の「不在」が解決されるものと信じているのである。*2

しかし結局、それはあくまで蜂蜜なのであり、血液ではなかった。その点で、「わたし」にはやはり変性が付きつけられる。彼女が安住しようとした「終わりのない日常」などというものは「無い」のであり、その象徴であった学生寮は先生の身体とともに終焉に向かっていることを示している。

*1:この寮生が数学科の学生であったというのは、『博士の愛した数式』にも繋がる小川洋子の数学への関心が分かるところである。

*2:天井から滴り落ちる血液というのは、学生寮が死にかけていることを示唆している。

review02:小川洋子「妊娠カレンダー」

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小川洋子の「妊娠カレンダー」には、どこか懐かしさを覚える陰鬱な雰囲気がある。例えるなら、梅雨時のジメジメと、そしてねっとりしたあの空気感のような、あるいは何らかの分泌物のような雰囲気である。

この作品には先行論がある。高根沢紀子「小川洋子「妊娠カレンダー」論」*1である。

この先行論は作品論として、今ひとつ精彩に欠ける感があるものの、見るべき点が2つある。1つ目は、この作品がいわば母子健康手帳として機能しているということ。2つ目は、「わたし」が擬似的な胎児であるということである。また、つわりを、胎児を異物と判断した結果起きる症状と解釈している点にも見るべき点がある(別にそれは高根沢氏の発案ではない)。

この作品を読むと不思議に感じられるのは、その地の文である。まあ、そもそも小説というのがそもそも何なのかという問題は置いておいて、世の中には手紙の形式を借りたり、日記の形式を借りた作品というのも存在するところである。

従って、この作品は日記形式であるから、「日記」と捉えたくなるところではあるが、それにしては「わたし」の情動がやけに冷静なのである。日記と言えば、その日あったことや見聞きしたことを、そのときの自分の感情を交えて赤裸々に書くものではないのか。その観点からすると、これは「日記」と呼ぶにはやけに冷徹で、そうした肉感とでも呼ぶべきものが欠けており、小説的なのである。

「小説」と呼ばれる形式は不思議で、それ自体なんのために書かれたのか分からない。「小説」という形式は、「小説」という形式でしか成立しない。あんなに他人の行動を綿密に描写し、場合によっては他人の情動にまで踏み入って描写する。その「語る」という行為は、極めて特異であると共に普遍的であるという点で特異である。

であるからして、この作品を「小説」の形式で描かれた作品と断じてしまっては、その「日記」形式を借りた(ように見える)良さが死ぬのであるが、そこで先ほど紹介した作品論の「母子健康手帳」という解釈は大変的を得ているように思われる。

先行論をお読みいただければ分かる通り、「母子健康手帳」と出てきたのは、妊婦が妊娠中に病院にかかる回数と、この小説で記述されている日数が一致するという点からなので、「母子健康手帳」という表現にさほどこだわる必要はない。言い方を変えれば、これは「わたし」が姉を診断した記録と読むことができるのである。

そうすると、「日記」にしてはやけに冷徹な雰囲気も頷ける。これは「観察日記」なのである。

そのとき、「わたし」が姉に農薬にまみれている(かもしれない)グレープフルーツをジャムにして食べさせる行為にも一応の解釈が見られようというものである。どうやらこの作品においては、この行為=姉の胎児に害を与えようとグレープフルーツのジャムを食べさせる行為が「悪意」によるものかが議論になるようだが、僕はこれは悪意によるものではないと思う。

「わたし」にとってこれは単純に観察日記なのである。グレープフルーツのジャムを食べさせる行為も、無邪気な子供の生体実験と呼ぶべきであろう。そこに悪意は無い。

 

     ◆

 

そもそも、この小説に主に描かれる3人の姿が、歪ではないだろうか。姉妹2人と、姉の夫が同居する家。姉妹が同居するだけなら、まだ頷けよう。しかしそこに姉の夫という「異物」が混入している。一方、夫婦が同居するだけなら、普通のことである。しかしそこに妻の妹という「異物」が混入している。

そして、その様子を妹から見てみれば、これは家族の膨張である。姉と2人家族であったものが、姉の夫がやってきて3人になる。そこに姉夫婦の子供が増えて4人になろうとしている。

これは「染色体」の分裂のように見えないだろうか。思い出してみれば、「わたし」は姉の腹部に宿る胎児を「染色体」として理解している。それは膨張する家族をも「染色体」として理解していることを意味しないだろうか。

そして面白いのは、姉にとってみても、自分の腹部にいる胎児は現実味を欠いたもののようである。彼女は自分の腹部にいる胎児のことを「妊娠」や「ニ・ン・シ・ン」と呼称しているが、「妊娠」とは実体の伴わない現象のことである。姉にとっても、未だ胎児の姿は実体を伴って理解されない。

姉の「妊娠」は、姉自身の妊娠であると同時に、この奇妙な3人の膨張をも意味する。そのとき、姉はその異物を排除しようとしてか、つわりに苦しむ。そしてその夫も、それに同期してつわりのような症状を訴える。それだけでなく、「わたし」さえも、そのつわり=異物を排除しようとする作用を起こすことになる。それが姉にグレープフルーツのジャムを食べさせるという行為なのではないか。しかしやはりそこに「悪意」はない。

「妊娠カレンダー」とは、「わたし」の姉の妊娠を、あるいは胎児の様子を観察した記録である。しかしその妊娠は、同時に「わたし」のものであった。この作品に「曖昧さ」があるとすれば、その抽象性に発するものであろう。

*1:上武大学経営情報学部紀要』第26号、上武大学経営情報学部、2003年12月

ジャニヲタ研究大事典15:Myojo第26回 Jr.大賞2020結果の分析

本記事が執筆されたのは、2020年2月です。新しいグループ結成や、新型コロナウイルスによる公演の中止などは、あったとしても反映されていません。

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Jr.大賞とは、毎年雑誌『Myojo』上で行われる読者によって行われる大規模な調査を指す。「調査」とは言っても、別に学術的なものではなく、ジャニーズJr.(以下、ジュニア)の面々のキャラを調査するものであると言っていい。

例えば「字がキレイそう」や「いちばんおもしろい」と言った部門が端緒だが、ここで明らかにされるのはジュニアのキャラであって、実態ではない。それを証明するかのように、読者投票の後に付される、ジュニア同士の互選による「Jr.が選ぶJr.大賞」の方とは結果が大きく異なる。

ジュニアであればジュニアのことをお互いに知っているため、そちらの方が実相に近いとも言えるし、ジュニアであれば別のジュニアがどういうキャラでやっていこうとしているか知っていて、忖度しているとも言える。

しかし重要なのは、いずれにせよ、そこに反映されているのが、極めて一面的な「キャラ」に過ぎないということだろう。

「恋人にしたい」部門

その中でも特に影響力を持つのが「恋人にしたい」部門である。大々的に発表*1されるこのランキングは、端的に人気度を示すと言ってもいい。

なぜこれほど重要かというと、第一に「恋人にしたい」というのが、アイドルにとって必須の資質であることに加えて、第二にこの部門で1位を獲ったジュニアは、過去26回では、西畑大吾小原裕貴を除いて全員がデビューしているのである。

もちろん、ここにある「人気度」とは、単にファンの(このブログ上では「ジャニヲタ」と呼んでいる)数を示すのではなく、「ファンの人数×平均資金力」を示す。つまり、ファンの数が少なくとも、1人あたりが支出することのできる額が大きければ、ランキング上位に食い込むことが出来る。端的に言えば、「恋人にしたい」部門は、「ヲタクの力」を表すのである。

前回第25回の結果は次のようになっている。

  1. 西畑大吾(なにわ男子)
  2. 向井康二Snow Man
  3. 浮所飛貴(美 少年)
  4. 那須雄登(美 少年)
  5. 大西流星(なにわ男子)
  6. 高橋優斗HiHi Jets
  7. 松村北斗SixTONES
  8. 中村嶺亜(7 men 侍)
  9. 佐藤龍我(美 少年)
  10. 井上瑞稀HiHi Jets
  11. 橋本涼HiHi Jets
  12. 作間龍斗HiHi Jets
  13. 道枝駿佑(なにわ男子)
  14. 高橋恭平(なにわ男子)
  15. 京本大我SixTones
  16. 室龍太
  17. 渡辺翔太(Snow Man
  18. 大橋和也(なにわ男子)
  19. 松田元太(Travis Japan
  20. 松倉海斗(Travis Japan

このうち、下線を引いたのは、今回のJr.大賞には不参加だった面々である。つまり、今回は前回と比べて上位20位のうち4名が「卒業」しており、何もしてなくても順位が4つ上がる計算になる。

特に当時話題になったのは、メンバー7人中5人が20位以内にランクインしたなにわ男子と、メンバー5人中4人が20位以内にランクインしたHiHi Jetsであった。

関西の躍進、HiHiの停滞

今回の結果は次のようになった。

  1. 西畑大吾(なにわ男子)前回1位±0(実動±0)
  2. 浮所飛貴(美 少年)前回3位+1(実動±0)
  3. 道枝駿佑(なにわ男子)前回13位+10(実動+8)
  4. 大橋和也(なにわ男子)前回18位+14(実動+9)
  5. 中村嶺亜(7 men 侍)前回8位+3(実動+2)
  6. 高橋優斗HiHi Jets)前回6位±0(実動-1)
  7. 大西流星(なにわ男子)前回5位-2(実動-3)
  8. 那須雄登(美 少年)前回4位-4(実動-5)
  9. 井上瑞稀HiHi Jets)前回10位+1(実動-1)
  10. 松田元太(Travis Japan)前回19位+9(実動+4)
  11. 西村拓哉(Lilかんさい)前回30位+19
  12. 佐藤龍我(美 少年)前回9位+3(実動+5)
  13. 作間龍斗HiHi Jets)前回12位-1(実動-3)
  14. 高橋恭平(なにわ男子)前回14位±0(実動-2)
  15. 松倉海斗(Travis Japan)前回20位+5(実動-10)
  16. 長尾謙杜(なにわ男子)前回31位+15
  17. 中村海人Travis Japan)前回23位+6
  18. 正門良規(Aぇ! group)前回21位+3
  19. 末澤誠也(Aぇ! group)前回37位+18
  20. 藤原丈一郎(なにわ男子)前回27位+7

ここから分かるように、実際には、抜けた5人の分、ランキングが上にずれたのではなかった。端的に分かりやすいところでは、女性とベッドの中に入っている2ショット写真が流出し、謹慎した橋本涼が前回11位だったのが、今回は20位内からも漏れている。

同時に寝顔の写真が流出した作間龍斗も、前回から順位を1つ下げただけに見えるが、実働では3つ下がっている。

それだけにとどまらず、大きな動きを見せたのがなにわ男子であった。おそらくファンの中でも、Snow ManSixTONESのデビューを踏まえ、「次はなにわ男子」との意識が強まったのであろう、20位以内に全員がランクイン、平均で4.9位ランクを上げている。

これを評して、「関西の止まらない勢いを東京Jr.が追いかける!!」と評した編集部の言葉も然りであるが、目に付くのはHiHi Jetsの停滞感であろう。

前述した橋本・作間のランクダウンに加え、高橋優斗井上瑞稀が実動では順位を1つ下げ、猪狩蒼弥は依然としてランクインしていない。フジテレビ系「RIDE ON TIME」というドキュメンタリー番組で特集されたり、単独公演を行うなど事務所からバックアップされている印象であることを加えて考えると、若干心もとない。

リア恋とは何か

「恋人にしたい」部門と異なるのが「私のリア恋枠」である。

ここで注目せられるのが投票者の声である。1位を獲った正門良規に寄せられた声である。

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この「まわりにいそうで、絶対にいない、絶妙な感じ!」という指摘は、極めて絶妙である。つまり、リア恋において必要なのは第一に「周りにいそう」ということであり、それでいてアイドルであることと両立させるためには、第二に「絶対にいない」という要素が必要になる。

つまり、ここで一つのベン図を書くことができる。

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このうち、黄色い方は「非アイドル的属性=「周りにいそう」であり、青い方は「アイドル的属性」=「絶対に(周りに)いない」である。この2つが重なり合うところに、リア恋/リアコがある。

*1:『Myojo』2020年4月号では、1位に2ページ、2位と3位に1ページずつ、4位から10位に1/4ページが与えられた